Wednesday, April 28, 2021

『ティファニーで朝食を』

『ティファニーで朝食を』 by トルーマン・カポーティ 訳 藍(2017年07月22日~2017年11月25日)


僕はかつて暮らしていた場所や家にいつも引き戻され、近くに住んでいた人たちのことを懐かしく思い出す。たとえば、東70丁目辺りのブラウンストーンのアパートに戦争が始まって間もない頃の数年間、ニューヨークに出てきたばかりの僕は住んでいた。

ワンルームの部屋には屋根裏部屋にあるような古い家具がひしめき合っていた。ソファーが一つあり、真っ赤なビロードの生地で覆われた椅子がいくつか並んでいた。座るとちくちくして、暑い日の路面電車の中を思い出すような生地だった。壁はしっくい塗りで、タバコの染みのようなくすんだ色をしていた。部屋のあちこちに、バスルームにも古くなって茶色の斑点のついた版画がかかっていて、どの版画にもローマの遺跡が描かれていた。窓は一つしかなく、その窓を開くと非常階段に通じていた。

それでも、ポケットの中に入れた手に部屋の鍵が触れるたびに僕の気分は高まった。たしかに陰鬱になるような部屋ではあったものの、それでもそこは僕が初めて手に入れた自分だけの場所だった。愛読書を並べ、いくつかの空き瓶にこれから削っていくつもりの鉛筆を立てた。作家志望の僕にとって、必要だと思われるものがすべて揃っていた。

ホリー・ゴライトリーについて書くことになるとは、その当時は夢にも思わなかったし、おそらく、ジョー・ベルと話をしなかったら、今も彼女のことを書こうなんて思わなかっただろう。でも彼と話しているうちに、彼女についての色々な記憶が再び動き出したのだ。

ホリー・ゴライトリーはその古いブラウンストーンのアパートの一室を借りていて、彼女の部屋は僕の部屋の真下だった。ジョー・ベルはレキシントン街の一角にあるバーを当時から、そして今も経営している。ホリーも僕も1日に6、7回そこに通っていたのだが、いつもお酒を飲みに行っていたわけではなく、大体は電話を借りに行っていた。戦時中で個人が電話を引くのは困難だったからだ。

電話を貸してくれただけではなく、ジョー・ベルは電話を受け、親切に伝言を伝えてくれた。それはホリーにとってはとてもありがたいことだった。なにしろ彼女にはもの凄く多くの電話がかかってきたから。

もちろん、それはずっと昔の話であり、先週ジョー・ベルと会ったのも数年ぶりだった。時々は連絡を取り合っていたし、たまには近くを通るついでに彼のバーに立ち寄ることもあったが、実際、僕らは二人ともホリー・ゴライトリーの友人であるという以外には、それほど強い絆はなかった。

ジョー・ベルには気難しいところがある。それは彼自身が認めているのだが、彼が言うには、ずっと独身でいたことと胃が弱いことが原因で、そういう性格になったらしい。彼を知っている人なら誰でも、彼は話しづらい人だと言うだろう。共通する興味の対象でもないと、彼と会話を続けるのは困難だが、ホリーが僕ら二人に共通する好みの対象だった。他には、アイスホッケーや、ワイマール犬や、『われらの愛しき日曜日』(彼が15年間聴き続けているラジオの連続メロドラマ)や、他には、ギルバートとサリバンについて彼と話したことがある。彼はギルバートとサリバンのどちらかと親戚関係にあると言い張っていたが、どちらだったのかは思い出せない。

それで、先週の火曜日の夕方に電話が鳴って、「ジョー・ベルだが」という声を聞いた時、僕はホリーの話に違いないと思った。彼はホリーのことだとは言わなかったが、「今すぐこっちに来れるか? 大事なことなんだ」と言う彼の、元々蛙のようにしゃがれた声が、興奮で余計にかすれていたから。


10月の雨が降りしきる中、僕はタクシーに飛び乗った。タクシーの中で、もしかしたらホリーが彼の店にいるのかもしれない、もう一度彼女に会えるのだろうかと考えていた。

しかし、店内にはマスターの他には誰もいなかった。ジョー・ベルの店はレキシントン・アベニューのバーにしては比較的静かなバーだった。ネオンサインもなく、客寄せにテレビも置いていない。二枚の古い鏡が外の通りの天候を映しているだけだ。

カウンターの向こう側の壁に、アイス・ホッケーの名選手たちの古い写真に囲まれた〈くぼみ〉があり、その〈くぼみ〉には大きな花瓶が置かれ、いつでも新鮮な花が生けられていた。その花はジョー・ベルが自分の手で念入りに品よく生けていた。

僕が店に入ると、彼はまさに花を生けているところだった。

「当たり前だが」と、彼は一輪のグラジオラスの花を花瓶に深く差しながら言った。「当たり前だが、君にわざわざ来てもらったのは、君の意見が聞きたいからなんだ。それが妙なんだよ。実に妙なことが起こったんだ」

「ホリーから連絡でもあったのかい?」

彼は花の葉を指で触りながら、どう答えればいいのか迷っているようだった。彼はほっそりした頭にごわごわした白髪の小柄な男で、斜面を描くような骨張った顔をしていた。彼がもっと背の高い男なら、しっくりくる顔だっただろう。顔色は常に日焼けしているような色合いだったが、今はさらに赤みが増していた。

「彼女からは何の連絡もない。というか、よくわからないんだ。それで君の意見を聞きたいんだよ。何か一杯、飲み物を作ろう。新作があるんだ。〈ホワイト・エンジェル〉っていうカクテルなんだ」

彼はそう言うと、ウォッカとジンを半分ずつ入れ、ベルモットは入れずに、それを混ぜ合わせた。できあがったものを僕が飲んでいる間、ジョー・ベルはタムズ胃腸薬をなめながら、頭の中で僕に話す事柄を整理していた。

それから、「ユニオシさんを覚えているか? 日本出身の紳士だ」と切り出した。

「彼はカリフォルニア出身だよ」と僕は言った。ユニオシさんのことは、はっきりと覚えている。彼は何かの写真誌のカメラマンで、当時は彼も僕と同じブラウンストーンのアパートの一室に住んでいた。彼の部屋は僕の部屋の真上だった。

「俺が混乱するようなことは言わないでくれ。俺が聞いているのは、誰のことを言っているのかわかるか?ってことだ。まあいい。それで、昨夜ここにさっそうと入ってきたのが、他ならぬそのユニオシさんだったんだ。もう二年以上彼と会っていなかったんだが、この二年彼はどこにいたと思う?」

「アフリカでしょ」

ジョー・ベルはタムズをカリカリと嚙むのをやめ、目を細めた。「どうやって知ったんだ?」

「ウィンチェルが書いたゴシップ記事で読んだよ」実際に僕は記事で読んだのだ。

彼はガチャンとレジを開けると、茶封筒を取り出した。

「そうか、このこともウィンチェルの記事に書いてあったか?」

封筒には三枚の写真が入っていた。撮る角度が微妙に違っていたが、三枚ともほぼ同じような写真だった。背の高い細身の黒人の男が写っていた。木綿のスカートのようなものを身に着けている。そして恥ずかしそうではあるものの、得意げな笑顔で、風変わりな木製の彫刻を両手で突き出すようにこちらに見せていた。

それは若い女の顔を細長く引き伸ばした木彫りの彫像だった。髪にはつやがあり、少年のような短髪だった。目はなめらかに彫られているが、あまりにも大きかった。頭の先端がとがっているため、目がつり上がっている。口は大きく誇張されていて、ピエロの唇に似ていなくもない。

ひと目見た感じでは、それはありふれた原始的な彫像だったが、よく見るとそうでもなく、ホリー・ゴライトリーの生き写しに見えてきたのだ。少なくとも色のない彫像としては、この上なく彼女によく似ていた。

「さて、これを見てどう思う?」と、ジョー・ベルは僕が困惑するのを見て満足そうに言った。

「彼女に似てるね」

「なあ、いいかい」そして彼は片手でカウンターを叩いた。「彼女だよ。俺がいつでも結婚して家族を養える男だってことと同じくらい明らかだ。あのちびの日本人も見た瞬間に彼女だとわかったそうだ」

「彼は彼女に会ったのかい? アフリカで?」

「いや、ただその彫像を見ただけだが、結果としては同じことだ。これを自分で読んでみな」彼はそう言うと、一枚の写真を裏返した。

裏にはこう書かれていた。「木彫りの彫刻、S族、トコカル、東アングリア、クリスマス、1956年」

そして彼は語り始めた。「あの日本人が言うには、」話はこういうことらしい。

クリスマスの日、ユニオシさんはカメラを携えてトコカルという村を通りかかった。そこは目を見張るものは何もない、面白みに欠ける村で、庭には猿がいて、屋根にはコンドルやタカがとまっているような、泥でできた小屋が集まっていた。

彼が先を急ごうと思った時、ふと一人の黒人が視界に入った。戸口にしゃがみ込んで、杖のような木の棒を猿の形に彫っていた。ユニオシさんは感心して、もっと作品を見せてくれと頼んだ。そうして、彼は若い女の頭部の彫刻を見せられたのだ。

それを見て、彼は夢の中に転がり込んだような気持ちになった、とジョー・ベルに語ったそうだ。しかし、彼がそれを買いたいと申し出ると、その黒人は片手で自分の股間を覆い隠した。(それはどうやら、自分の胸を軽く叩くジェスチャーに相当するような、親しみを込めた表現のようだったが、)彼はだめだと言った。1ポンドの塩と10ドルでも、腕時計と2ポンドの塩と20ドルを提示しても、何も彼の心を動かすことはできなかった。

そうして、ユニオシさんはその彫刻がどのようにできたのか、その経緯を知りたいと思った。それを知るために彼は塩と腕時計を差し出した。すると、その黒人はアフリカ語と英語の混在した言葉で、指先の動きを交えながら話してくれた。

こういう経緯らしい。その年の春、三人の白人が馬に乗ってジャングルの中から、その村にやってきた。若い娘が一人と、二人の男だった。男は二人とも熱病にかかり目を充血させていた。二人の男は孤立した小屋に数週間にわたって引きこもり、悪寒に震えていた。一方、若い娘はほどなくして、その彫刻家に魅了され、彼と寝床をともにした。

「この部分は信じられない」と、ジョー・ベルは顔をしかめて言った。「彼女が好き勝手する娘だってことは知ってるよ。しかし、そんなことまでするとは思えない」

「それからどうなったんだい?」

「それだけだ」と、彼は肩をすくめた。「しばらくすると、やって来た時と同じように、彼女は馬に乗って去っていったんだ」

「一人で? それとも二人の男と一緒に?」

ジョー・ベルは目をしばたたいた。「推測だが、二人の男と一緒だろう。あの日本人はその国のあちこちで彼女について聞いて回ったらしいが、誰も彼女を見た者はいなかったそうだ」

それを聞いて僕はがっかりした。その気持ちは彼に伝わったようだったが、僕が残念に思う気持ちなんて微塵も受け取りたくないと彼は言いたげだった。

「君が認めなければならないのは、これがこの何年かの間で」彼は指を折って年数を数え始めたが、指が足りなくなり数え切れなかった。「この10年以上の間で、これが唯一の確かな情報だということだ。俺の望みは、俺が望んでいるのは、彼女が金持ちになっていることだ。彼女はきっと金持ちになったんだ。アフリカをあちこち馬に乗って回るなんて、金持ちじゃなきゃできないだろ」

「彼女はたぶんアフリカに足を踏み入れたことなんてないよ」と僕は言った。そう思う気持ちが強かったのだが、それでも、彼女がアフリカの大地に立つ姿が見える気もした。そこはいかにも彼女なら行きそうな場所だったからだ。それに木彫りの彫像もある。僕はもう一度、写真に目をやった。

「よくわかるな。じゃあ、彼女は今どこにいる?」

「もう死んでるか、精神病院に入っているか、あるいは結婚してるかも。彼女は結婚していると僕は思うよ。すっかり落ち着いて、この街のどこかにいるかもしれない」

彼は少し考えて、「いや」と言い、首を振った。

「理由を教えよう。もし彼女がこの街にいるのなら、俺は彼女を見かけたはずだ。考えてもみろ。歩くことが好きな男が、俺のような男が、10年とか12年にわたって、この辺りの通りを歩き回ってきたんだ。しかも、その間ずっと、一人の人間を目で探しながらだ。それでも、その人の姿はどこにも見当たらなかった。彼女はここにはいないと考えるのが理にかなっているだろ? 俺はいつでも彼女の面影なら見かけてきたんだ。平らで小ぶりなお尻や、細身の若い娘がまっすぐに早足で歩いていく姿に彼女の面影を…」

彼は話を中断した。僕がじっと彼を見つめていることに耐えられなくなったようだった。

「俺の頭がおかしくなったと思ってるんだろ?」

「いや、ただ、あなたが彼女に惚れていたなんて知らなかっただけで、そこまでは思っていませんよ」そう言ってから、しまったと思った。彼の心を乱してしまった。

彼は写真をさっと取り上げると、封筒にしまった。僕は腕時計を見た。行くあてなどなかったが、そろそろ出て行ったほうがいいと思った。

「待ってくれ」と彼は言って、僕の手首をつかんだ。「たしかに俺は彼女に惚れていたよ。でも彼女の体に触れたいとか、そういう気持ちはないんだ」

それから彼は真顔で付け加えた。「そういうことを考えないというわけでもないんだ。この歳になってもだ。俺は1月10日で67歳なる。奇妙なことに、歳を取れば取るほど、そっち方面のことがますます気にかかるようになった。俺がまだ若造だった頃は、こんなにしょっちゅう、そんなことを考えていたはいなかった。でも今は、分刻みで頭に浮かんでくるんだよ。たぶん、人は成長すればするほど、考えたことを行動に移すのが難しくなってくる。思ったことが全部、頭の中にそのまま閉じ込められて、重荷になるんだ。みっともないことをしでかす老人の記事を新聞で読むたびにいつも思うんだ。頭の中の重荷のせいだなって。でも」彼は小さなグラスにウイスキーを注ぐと、それをストレートで飲み込んだ。「俺は自分の品位を落とすような真似はしない。俺は誓って、ホリーのことをそんな風に思ったことは一度もない。そういうことなしに誰かを愛することは可能なはずだ。見知らぬ者同士の距離感で付き合っていける。見知らぬ者同士でありながら、友人でもある関係のまま」

二人の男がバーに入ってきた。今が引き際だと思った。ジョー・ベルは僕を店の戸口まで送ってくれた。そこで彼は僕の手首を再びつかんだ。

「信じてくれるか?」

「彼女の体に触れたくないってことですか?」

「アフリカの話だよ」

その時、僕はその話がどうにも思い出せなかった。ただ、彼女が馬に乗って去っていく姿だけが頭に浮かんだ。

「いずれにしても、彼女はどこかに行ってしまったんですよ」

「そうだな」と、彼はドアを開けながら言った。「どこかに行ってしまった」

外に出ると、雨はやんでいた。空気の中に霧のような雨の名残りを感じるだけだ。それで僕は角を曲がって、あのブラウンストーンの建物がある通りを歩いてみた。

この通りは夏には歩道に涼しい木陰ができるのだが、今では葉っぱは黄色くなり、ほとんどの葉が下に落ちていた。雨が落ち葉をつるつるに濡らし、足が滑りそうになる。

その道を半分ほど進んだところに、僕の住んでいたブラウンストーンのアパートはある。その隣には教会があり、教会の青い時計塔が一時間ごとに時刻を告げている。

僕が住んでいた頃に比べると、そこはすっかり小綺麗になっていた。かつては曇りガラスの扉だった玄関は流行りの黒いドアになっていて、窓には品のある灰色の雨戸が取り付けられていた。

僕が知っている人で、今もそこに住んでいるのはサフィア・スパネッラ婦人だけだった。彼女はハスキーな声のソプラノ歌手で、毎日午後になると、セントラル・パークに行ってローラースケートをやっていた。彼女がまだそこに住んでいるとわかったのは、玄関口の踏み段を上がり、郵便受けを見たからだ。

僕が初めてホリー・ゴライトリーの存在に気付いたきっかけも郵便受けだった。そのアパートに住み始めて1週間ほどたった頃、2号室の郵便受けの名札を入れる枠に、珍しい名刺が差し込んであるのに気付いた。カルティエのように高級感漂う字体で、「ミス・ホリデー・ゴライトリー」と印刷されていて、その下の片隅には、「旅行中」と書いてあった。それは曲のワンフレーズのように僕の頭に付きまとった。「ミス・ホリデー・ゴライトリー、旅行中」


ある夜、すでに時刻は12時をだいぶ前に回っていたのだが、ユニオシさんが階段の下に向かって怒鳴る声に僕は起こされた。彼は最上階に住んでいたので、彼の声はアパート全体に響き渡った。激怒した厳しい口調だった。「ミス・ゴライトリー! いい加減にしてください!」

階下から湧き上がるように返ってきた声は、くったくのない若さ溢れる声で、なんだかおかしくて仕方ないみたいだった。「あら、あなた、ごめんなさいね。あのいまいましい鍵をなくしてしまったの」

「こうやって私の部屋のベルを鳴らし続けてもらっては困るんですよ。頼むから、お願いだから、自分の鍵を作ってください」

「でも、あたし全部なくしちゃうわ」

「私は働いてるんですよ。寝ないといけないんですよ」ユニオシさんは大声で言った。「なのに、あなたはいつも私の部屋のベルを鳴らす...」

「あら、怒らないで、おちびちゃん。もうしないわ。もう怒らないって約束してくれたら」彼女の声が近づいてくる。彼女が階段を上ってくるのだ。「ほら、前に言ってた例の写真、撮らせてあげるわ」

その頃には僕はベッドから抜け出て、ドアをほんの少し開けていた。ユニオシさんは黙り込んだ。彼の沈黙が聞こえてくるようだった。というのも、その沈黙によって、彼の息づかいの変化がわかったのだ。

「いつ?」と彼は言った。

彼女は笑って、「そのうちね」と、ごまかすように答えた。

「いつでもいいよ」と彼は言って、ドアを閉めた。

僕は廊下に出て、気づかれずにその子が見える程度に手すりから身を乗り出した。彼女はまだ階段を上っていて、もうすぐ踊り場に着こうとしていた。彼女の少年のような髪にはいろんな色が混じっていた。黄褐色の筋がいくつも入っていて、色素が抜けた金色や黄色の髪の束が廊下の明かりを反射していた。

夏が近づいていて、暖かい夜だった。彼女はすらりとした涼しそうな黒の洋服を着ていて、黒いサンダルを履き、真珠のチョーカーを首に巻いていた。あか抜けた細身の体にもかかわらず、彼女には朝食用のシリアルを連想させるような健康的な雰囲気があった。石鹼やレモンを思わせる清潔さもあり、頬がほんのりとピンク色に染まっている。彼女の口は大きく、鼻は上向きだった。サングラスが彼女の目を覆い隠していた。少女時代は過ぎたものの、まだ大人の女性にはなりきっていない、というような顔だった。彼女は16歳から30歳のどの年齢であっても不思議はないと思った。後でわかったことだが、彼女はあと2ヶ月で19歳になるところだった。

彼女は一人ではなかった。彼女の後ろについてくる男がいた。男のぽっちゃりした手が彼女のお尻をつかもうとしていた。その様子はなんだか不適切に見えた。道徳的にではなく、美的に。

彼は背の低いでっぷりした男で、人工的に日焼けしているような肌の色をしていて、髪にはポマードをつけていた。肩の張ったピンストライプのスーツを着ていて、襟にはしぼみかけた赤いカーネーションを差していた。

二人が彼女の部屋の前に着くと、彼女はハンドバッグの中をごそごそとかき回した。男の分厚い唇が彼女のうなじにすり寄っているのだが、それには構わず、彼女は鍵を探している。やっと鍵を見つけ、ドアを開けると、彼女は男に向かって、心を込めるように言った。「どうもありがとう、ダーリン。おうちまで送ってくださって、とても感謝しているわ」

「おい、ちょっと!」と、男は目の前で閉まろうとしているドアに向かって言った。

「なあに、ハリー?」

「ハリーは別の男だ。俺はシドだよ、シド・アーバック。俺のことが好きなんだろ?」

「あなたのこと、凄く尊敬しているわ、アーバックさん。でも、おやすみなさい、アーバックさん」

アーバック氏は信じられないといった表情で、ぴしゃりと閉まったドアをじっと見つめた。

「なあ、ちょっと、中に入れてくれよ。俺のことが好きなんだろ。俺は人に好かれる男なんだ。さっきも俺は勘定を払わなかったか? あんたの友達の5人分だよ。俺は今日初めて会ったっていうのに、そこまでしたんだから、当然俺を気に入っただろ? 俺のことが好きなんだろ? なあ」

男はドアを軽く叩いていたが、次第にその音は大きくなっていった。ついに数歩後ろに下がると、背中を丸め身を屈めた。ドアに体当たりして押し倒すつもりなのかと思った。しかしそうはせずに、男は壁にこぶしを叩きつけながら、階段を転がるように駆け下りた。

男が下まで下り切ってから、部屋のドアが開き、彼女が首を突き出した。

「ねえ、アーバックさん」

振り返った男の顔に、ほっとしたような笑みが広がった。〈この子は焦(じ)らしていただけなんだ。〉

「今度また女の子に、化粧室に入る時に渡すチップをねだられたら」と、彼女は言い放った。からかっているような言い方ではなかった。「あなたに忠告しておいてあげるわ。たったの20セントなんて渡さないことね!」

彼女はユニオシさんとの約束を守った。というか、たぶん彼の部屋のベルを鳴らすのはやめたのだと思う。数日後には僕の部屋のベルを鳴らし始めたのだから。

夜中の2時のこともあったし、3時や4時にベルを鳴らされることもあった。彼女は何時に僕を叩き起こそうと、良心の呵責なんて全く感じていない様子だった。そのたびに僕は1階の玄関の鍵を開けてあげた。僕には友達はほとんどいなかったし、ましてやそんな遅くに訪ねてくる人なんていなかったので、ベルが鳴るたびに彼女だとわかった。でも最初のうちは、身内の不幸を知らせる電報でも届いたのではないかと、やや不安になりながら部屋のドアに向かった。すると、ミス・ゴライトリーが声を張り上げて言った。「ごめんなさいね、ダーリン。鍵をなくしてしまったのよ」

もちろん、それまで彼女と会ったことは一度もなかった。実際には階段や道で、彼女とばったり顔を合わせることはしばしばあったのだが、彼女の方は僕のことなんて認識していないようだった。

サングラスをかけていない彼女は見たことがなく、いつ見ても彼女は素敵な洋服を着こなしていた。彼女が着るものには、質素さの中に当然のように趣味の良さがうかがえた。青やグレーの洋服を好み、光沢のある洋服は避けているようだった。そのため、彼女自身がパッと明るく輝いていた。人は彼女を写真誌のモデルか、ひょっとしたら若い女優だと思ったかもしれない。ただ、彼女が活動している時間帯から判断すると、そのどちらをやる時間もなさそうだった。

時折、僕はアパートから離れたところでも彼女と出くわすことがあった。一度、訪ねてきた親戚が僕を〈21〉というレストランに連れていってくれたことがあったのだが、その店の上席に、4人の男に囲まれて、ミス・ゴライトリーが座っていた。その中にアーバック氏はいなかったが、4人とも彼と似たり寄ったりの男たちだった。彼女は退屈そうに、人目もはばからず髪をとかしたり、あくびをかみ殺したりしていた。そんな彼女の表情を見ていたら、せっかくお洒落なレストランで食事をしているというのに、僕の気分はすっかり冷めてしまった。

別の夜、夏の盛りの頃だったが、部屋があまりにも暑いので僕は通りに出た。3番街を51番通りに向かって歩いていると、骨董品店が目に入った。そのショーウィンドーには目を見張るものが置かれていた。それは宮殿を模した鳥かごだった。尖塔のついたモスクや、竹でできた個室が、おしゃべり好きなオウムたちでいっぱいになるのを待ちわびていた。しかし値段は350ドルもした。

家に帰る途中、P.J.クラークというバーの前に、タクシーの運転手たちが群がっているのに気づいた。どうやら、ウイスキーに酔って赤い目をしたオーストラリア人の陸軍将校たちが陽気に、バリトン歌手さながらに声を張り上げて、『ワルチング・マチルダ』を歌っているのを見物しているらしい。

将校たちは歌いながら、一人の娘と代わる代わるスピン・ダンスを踊っていた。高架鉄道の下の石畳みの上で踊っているその娘は、確かにミス・ゴライトリーだった。彼女はスカーフのように、ふわりと男たちの腕から腕へと舞い回っていた。


その頃はまだ、ミス・ゴライトリーは僕の存在を、玄関のベルを押せば中へ入れてくれる便利屋としてしか認識していないようだったが、僕の方は、その夏が終わる頃には、彼女についてかなり詳しい専門家になっていた。

彼女の部屋の前に置かれたゴミ箱を観察して、僕は色々と発見した。彼女がいつも読んでいるものは、タブロイド紙と旅行のパンフレットと占星術の図解本で占められていること、彼女はピカユーンというあまり見かけないタバコを吸っていること、カッテージ・チーズとメルバ・トーストで生き延びているらしいこと、それから、彼女のいろんな色が混じった髪は、どうやら自分で染めているらしいこともわかった。

また同じ情報源からわかったことだが、彼女は戦場にいる兵士から送られてくる手紙を、箱一杯になるほど大量に受け取っていた。手紙はいつも本に挟むしおりのように細長く引き裂いてあった。たまに僕は通りがかりに、しおりの一枚をそっと引き抜いていた。「覚えているか」とか「君がいなくて寂しい」とか「雨が降っている」とか「返事を書いて」とか「ちくしょう」とか「ばかばかしい」とか、そういった言葉が最も頻繁に紙切れに書かれていた。他には、「一人で寂しい」とか「愛してる」とかもよく見受けられた。

また、彼女は猫を一匹飼っていて、ギターも弾いた。日差しの強い日には、彼女は髪を洗い、赤茶色の雄のトラ猫と一緒に非常階段に座って、ギターを指で弾きながら、髪を乾かしていた。彼女の奏でる音楽が聞こえてくると、僕は静かに窓際に立って耳を澄ました。彼女の演奏はとても上手で、ギターを弾きながら歌うこともあった。彼女の歌声は変声期の少年のようにかすれた、しゃがれ声だった。

彼女はミュージカルで流行った曲をなんでも知っていた。コール・ポーターやクルト・ヴァイルの曲、特にブロードウェイ・ミュージカル『オクラホマ!』で歌われた数曲がお気に入りだった。あの夏、そのミュージカル・ソングはどこにいても流れていた。

しかし中には、この曲をどこで知ったのだろう? 一体、彼女はどこ出身なんだ? と首をかしげてしまうような曲が聞こえてくることもあった。

荒々しくも優しい、さすらうようなメロディーに、どこかしら松林や大草原を想起させるような歌詞が付いていた。

こういう歌もあった。「眠りたくない、死になくもない、ただ、大空の大草原を旅していたい」

この曲が一番彼女を満足させるようだった。というのも、彼女は髪がすっかり乾いても、ずっとこの曲を歌い続けていたから。太陽が沈んで、夕闇の中に明かりのともる窓が見え始めても、ずっと。


僕たちが知り合いと呼べる関係になったのは、それからしばらくして、9月になってからのことだった。夕暮れ時には、ひんやりとした秋風がさざ波のように吹き始めていた。僕は映画を観に行って、帰宅すると、寝酒にバーボンを一杯飲みながら、シムノンの新刊の推理小説をベッドで読んでいた。僕は気分よく、すっかりくつろいでいたので、不安な気持ちが胸の中で段々とふくれ上がっていることにしばらく気づかなかった。自分の心臓の高鳴りを聞いて初めて、その不安感に気づいた。それは本で読んだこともあれば、自分で書いたこともある感覚だったが、実際に経験するのは初めてだった。じっと見られている感じがして、誰かが部屋にいる気配があった。

その時、突然、窓をコツコツと叩く音がした。見ると、亡霊のような灰色の影が窓に浮かんでいて、思わず僕はバーボンをこぼしてしまった。

少しの間、動けずにいた。やっとベッドから出て、僕は窓を開けると、ミス・ゴライトリーに彼女の望みを訊ねた。

「下の部屋にすっごく怖い男の人が来てるのよ」彼女はそう言いながら非常階段から足を離し、部屋の中に入ってきた。

「あのね、彼はお酒を飲んでいない時は優しいのよ。でも飲み出すと、もうね、ケダモノみたいになっちゃうの。一つだけ私の大嫌いなものがあるとすれば、嚙みつく男ね」

彼女は柔らかい厚めの布でできた灰色のバスローブの紐をゆるめ、片方の肩をさらけ出した。男が嚙みつくと、どういうことになるのかが目に見えてわかった。バスローブの下には彼女は何も身に着けていなかった。

「あなたを怖がらせてしまったとしたら謝るわ。でも、あのケダモノがもう手をつけられなくなっちゃってね、窓から抜け出してきたの。あいつは今、私がバスルームにいると思っているわ。あいつがどう思おうと構うもんですか。あんな奴どうでもいいわ。そのうち疲れて、寝ちゃうわ。そりゃそうよ。食事の前にマティーニを8杯も飲んだんですもの、象が洗えるくらいの量よ。ねえ、あなたがそうしたかったら、私を追い出してもいいのよ。こんな風にあなたの部屋に押し入っちゃって、私って非常識よね。でもね、あの非常階段って凄く冷たいの。あそこから、あなたはとても温かそうな人に見えたわ。そしたら兄のフレッドを思い出したの。昔ね、一つのベッドに4人で寝ていたんだけどね、寒い夜にフレッドだけは私が抱きついても嫌がらなかったわ。そうだわ、あなたのことをフレッドって呼んでもいいかしら?」

今では彼女はすっかり部屋の中に入っていて、そこで突っ立ったまま、僕をじっと見つめていた。サングラスをかけていない彼女を初めて見て、あのサングラスには度が入っていたことがわかった。というのも、彼女は宝石鑑定士が宝石を見つめる時のように目を細めて、僕を見ていたから。

瞳は大きく、少し青みがかっていて、ちょっと緑も入っているようで、少しだけ茶色も瞳の中に散らばっていた。彼女の髪と同じように、瞳にもいろんな色が混じっていた。まさに彼女の髪のように、瞳も生き生きとした温かな光を放っていた。

「私のこと、うるさい女だって思ってるんでしょ。それとも、大バカ女とかって思ってるかしら」

「そんなこと全然思ってないよ」

彼女は僕の返事にがっかりしたようだった。「きっと思ってるわ。みんなそうだもの。いいのよ、気にしないから。そう思ってくれたほうが楽だわ」

彼女は赤いビロード張りのぐらぐらする椅子に座ると、椅子の下で両足を折り曲げた。さっきよりもさらに目をすぼめて、部屋をちらちらと見回している。

「よくこんな部屋に住んでいられるわね。恐怖の館みたい」

「まあ、何にでも慣れるものだよ」と僕は言ったが、実際、この部屋を誇りに思っていたから、なんだか自分自身が腹立たしい気持ちにもなった。

「私は違うわ。何かに慣れるなんてことは絶対にないわ。何かに慣れちゃうような人は、死んでるのと同じじゃない」

彼女は、けなすような目で再び部屋をしげしげと見渡した。「あなたは一日中ここで何をしてるわけ?」

僕は本と紙が積み上げられている机に目を向けながら言った。「ものを書いているんだ」

「作家って年を取ってる人たちばかりだと思っていたわ。もちろんサローヤンは年を取っていないわね。私、パーティーで彼に会ったのよ。ほんとに全然年寄りじゃなかったわ。ただ」と彼女は考え込んだ。「彼はもっとちゃんと髭を剃ったらいいのにね...それはそうと、ヘミングウェイって年を取ってたかしら?」

「たしか40代だと思うよ」

「悪くないわ。私、42歳以上の男じゃないと、ドキドキしないのよ。知り合いに馬鹿な女の子がいるんだけどね、その子によく言われるわ、私は精神科医に見てもらった方がいいって。私はファザコンだって言うのよ。あの子ったら、たわごとばっかり言うんだから。私はね、年を取った男を好きになるように自分自身を訓練しただけなのよ。それは私にしては凄く気の利くことだったわ。サマセット・モームって何歳かしら?」

「よく知らないけど、60代とかじゃない?」

「悪くないわね。私、作家とベッドをともにしたことってまだないの。いや、ちょっと待って。あなた、ベニー・シャクレットって知ってるかしら?」僕が首を振ると、彼女は顔をしかめた。「変ねえ。彼、ラジオの脚本を凄くたくさん書いてるのよ。でもね、ほんと、いやな奴なの。ねえ教えて、あなたは本物の作家なの?」

「本物ってどういう意味で君が言ってるのかによるけどね」

「そうね、ダーリン、あなたが書いたものを買う人はいるの?」

「今のところいないけど」

「私があなたを手助けしてあげるわ」と彼女は言った。「ほんとにできるのよ。考えてみて、私の知り合いはみんな顔が広い人たちばかりなの。私はあなたを助けてあげたいわ。だってあなたって兄のフレッドによく似ているんですもの。兄より背は低いけどね。私が14歳の時から彼に会っていないわ。その時、私は家を出たのよ。あの頃すでに彼の身長は6フィート2インチもあったのよ。他の兄弟はみんな、あなたと同じくらいの背丈だった。おちびちゃんね。フレッドの身長をあんなに伸ばしたのはピーナッツ・バターね。ピーナッツ・バターをたらふく食べるフレッドを見て、みんな、いかれてると思ったわ。でも彼ったら、お構いなしなんですもの。彼がこの世の中で興味があるのは、馬とピーナッツ・バターだけね。彼はいかれてなんかいないわ。ただ優しくて、上の空で、もの凄くのろまなだけ。私が家から逃げ出す時、彼は中学2年生を3年連続でやっていたわ。かわいそうなフレッド。軍隊でも気前よく、ピーナッツ・バターを食べさせてもらえているといいんだけど。そういえば、私、お腹ぺこぺこだわ」

僕はお皿に盛られたリンゴを指差しながら、どうしてそんなに若いうちに家を出ることになったのか、その理由を訊ねた。

彼女は僕をぼんやりと見て、それから鼻をこすった。鼻がくすぐったいのかと思ったけれど、彼女が頻繁にその仕草を繰り返すのを見ているうちに、それは、個人的なことには首を突っ込まないでね、という合図なんだと思い当たった。

自分から進んで個人的なことを喋りたがる人の多くがそうであるように、彼女も直接的な質問をされたり、真相をつきとめようとする態度を感じ取ったりすると、身構えた。

彼女はリンゴを一口、齧ってから言った。「あなたが書いているものを話して聞かせて。物語の部分がいいわ」

「それはちょっと難しいね。僕が書いているものは君が思っているような物語じゃないんだ」

「そんなにけがらわしい話なの?」

「いつか読ませてあげるよ」

「ウィスキーとりんごってよく合うのよ。一杯いただけないかしら、ダーリン。それからお話を読んでちょうだい。あなたが書いたものよ」

まだ自分の作品が出版されたことのない人なら特に、自作の小説を声に出して読み聞かせるという誘いを断るような人はほとんどいないのではないか。

僕は二人分のお酒を作り、彼女の向かい側の椅子に腰を下ろすと、朗読を始めた。僕の声は、舞台に立ったような緊張と熱狂が入り交じり、少し震えていた。

それは新作だった。前日に書き上げたばかりだったので、そのうち当然感じるはずの、完成にはまだ直すべきところがあるという気持ちにはまだ至っていなかった。

それは、一つの家に一緒に住んでいる二人の女性の話だった。二人とも学校の先生をしている。一人が婚約してしまい、もう一人がその結婚を邪魔しようと、匿名のビラを書いて悪い噂を流すのだ。

僕は読みながら、ちらちらとホリーの表情を盗み見た。そのたびに僕の心臓は縮まるようだった。彼女はそわそわしていた。彼女は灰皿の中の吸い殻をつついてほぐしたり、指の爪をぼんやり眺めたりしていた。爪にやすりをかけたくて仕方ない様子だった。

ようやく彼女が興味をもってくれたかに思えた時、僕はさらにショックを受けた。こちらを見る彼女の目は、霜がかかったように心ここにあらずといった感じだったのだ。まるで、どこかの店の前で見かけた靴を思い浮かべながら、それを買おうか迷っているような目だった。

「それでおしまい?」と、彼女は目覚めたように聞いてきた。彼女はさらに何か言うことを探し、一瞬言葉につまった。「もちろん私自身はレズの子って好きよ。ちっとも怖くなんかないわ。でもね、レズの話は退屈で仕方ないの。私にはそういう子たちの気持ちが理解できないのよ。だって実際、ダーリン」彼女は僕が明らかに困惑しているのを見て、こう聞いてきた。「それがレズのおばさんたちの話じゃないとしたら、いったい何の話なの?」

僕はその物語を読んで聞かせたことを後悔した。さらにその内容を説明するという恥の上塗りをする気にはなれなかった。

僕が自作を朗読したのも、うぬぼれからだったが、同様の気持ちによって、僕は彼女を鈍感で何も考えていない、ただの目立ちたがり屋なんだと決めつけようとしていた。

「そういえば」と彼女は言った。「もしかしてあなたの知り合いに、優しいレズの子っているかしら? 私、今ルームメイトを探しているのよ。ねえ、笑わないでね。私って片付けができないのよ。でも家政婦を雇うお金はないし、実際、レズの子って素晴らしい主婦なのよね。率先してなんでもやってくれるんですもの。掃き掃除とか、冷蔵庫の霜取りとか、洗濯物をクリーニング屋に出すとか、あれこれ考えなくて済むでしょ。ハリウッドに住んでいた頃はルームメイトがいたのよ。彼女は西部劇の映画に出ていたから、みんなは彼女のことを「ローン・レンジャー」って呼んでいたわ。彼女のためにも言っておくけど、男と一緒に暮らすよりずっと良かったわ。もちろん、私にも少しはレズの気があるんだろうって思う人も結構いたわ。そうね、少しはあるわ。みんなそうでしょ。でも、ほんのちょっとよ。だからなんだっていうの? そんなことを気にして身を引く男なんて一人もいなかったわ。身を引くどころか、実際、男の人ってそういうことに刺激されるのよね。だってね、そのローン・レンジャーなんて二回も結婚しているのよ。普通、レズの子って一回しか結婚しないものなの。ただ名義が欲しくてね。一度結婚しちゃえば、それからはずっとミセスなんとかって呼ばれて、ハクがつくんですって。嘘でしょ!」彼女はテーブルの上の目覚まし時計をじっと見つめた。「もう4時半だなんてありえないわ!」

窓の外が青白くなり始めていた。夜明けのそよ風がカーテンをはたはたと揺らしていた。

「今日は何曜日だったかしら?」

「木曜日だよ」

「木曜日!」彼女は立ち上がった。「なんてこと」と彼女は言って、うめき声をもらしながら座り直した。「大変だわ」

僕はすっかり疲れてしまって、興味が湧かなかった。僕はベッドに横になると、目を閉じた。それでも我慢できなくなって聞いてしまった。「木曜日だと、どうして大変なの?」

「なんでもないわ。ただ、木曜日が来るっていうのを覚えていられないのよ。あのね、木曜日には8時45分の電車に乗らないといけないの。彼が面会時間にこだわっているのよ。ほら、10時までに到着すれば、あの気の毒な人たちが昼食を食べる前に、1時間面会できるでしょ。考えてみて、ランチは11時なのよ。もちろん2時に行ってもいいし、その方が私も楽ね。でも彼は午前中に来てほしいって言うのよ。そうすれば、その日一日頑張れるからって。もう仕方ないわ。ずっと起きてるしかないわね」と言って、彼女は頬をつねった。頬にバラのような赤みが差した。

「寝る時間がないと、私、肺炎で病んでるみたいに見えちゃうのよ。安アパートみたいに肌に張りがなくなっちゃうの。そんなの嫌よ。女の子が青ざめた顔でシンシン刑務所に行くなんてできない」

「そうかもしれないね」自作を読み聞かせたことで彼女に感じていた腹立たしい気持ちは徐々に引いていき、僕の興味はまた彼女に引き寄せられていた。

「面会に来る人はみんな、最高の自分を見せようと努力するのよ。とても思いやりがあるわ。本当に素敵なの。女の人たちは最高に綺麗な洋服を着て来るのよ。年を取った女性も、見るからに貧しい女性もよ。みんな愛情がこもってるのよね。綺麗な自分を見せてあげよう、いい香りをかがせてあげようって。そういうのって素敵だわ。私、子供も好きなのよ。特に黒人の子供たち、奥さんが連れてくる子供たちよ。そういう場所で子供たちを見かけたら、悲しむべきなんだろうけど、でもそんな感じじゃないの。子供たちは髪にリボンを結んでいて、靴はちゃんと磨き上げられているんですもの。子供たちのためにアイスクリームが出てくるんじゃないかと思ってしまうわ。時々、面会室がパーティー会場みたいに見えちゃうのよ。とにかく映画とは違うわね。ほら、鉄格子を挟んで怖い顔でひそひそ話している、みたいなやつ。実際は鉄格子なんてなくて、ただカウンター越しに話すのよ。子供たちはその上に乗って抱きしめてもらってもいいのよ。カウンター越しに身を乗り出せば、キスだってできるんだから。私が何より好きなのは、向かい合って見つめ合っている、幸せそうな人たちを見ることよ。みんな話すことをたくさん溜め込んでるから退屈なんてありえないわ。笑い合ったり、両手を握り合ったりしているの。でも面会が終わるとね、様子が変わっちゃうのよ」と彼女は言った。「帰りの電車で見かける彼女たちはね、川が流れていくのを見ながら、とても静かに座っているの」

彼女は髪を一筋、引っ張って口元までもっていくと、考え込むように髪の先を嚙んだ。「ずっと話してたら眠れないわね。そろそろ眠っていいわよ」

「続けて。興味があるんだ」

「あなたが興味あるのはわかるわ。だから寝てちょうだいって言ってるの。だって、このまま話し続けていたら、サリーのことを話すことになるわ。それってフェアじゃない気がするのよね」

彼女は音を立てずにそっと髪の毛を嚙んだ。

「誰にも言うなって言われたわけじゃないのよ。はっきりそう言われたわけじゃないってこと。それがおかしな話なの。この話、名前とか色々変えて、あなたの小説に使っていいわよ。ねえ、フレッド」彼女はもう一つ、リンゴに手を伸ばしながら言った。「胸の前で十字を切ってから、自分の肘にキスしてちょうだい」おそらく曲芸師なら自分の肘にキスくらいできるのだろうけど、僕はキスする仕草で許してもらった。他言するつもりはない。

「そうねえ」と、彼女はリンゴを頬張りながら言った。「あなたも新聞で彼のことを読んだことがあるかもしれないわ。名前はサリー・トマトって言うの。彼は英語があまり上手じゃないわ。私のイディッシュ語の方がましなくらい。でも彼、可愛らしいおじいさんで、もの凄く信心深いのよ。金歯がなければ、修道士に見えるわね。毎晩、私のために祈ってくれているんですって。もちろん彼は私の元恋人とか、そういうんじゃないのよ。彼のことを知った時には、彼はすでに刑務所の中にいたの。でも、この7ヶ月、毎週木曜日に彼に会いに行っていたら、今では彼のことが大好きになったわ。もし彼がお金をくれなくても、会いに行くんじゃないかしら。このリンゴ、やわらかすぎるわ」彼女はそう言うと、リンゴの食べ残しを窓の外に投げ捨てた。

「でもね、前にもサリーを見かけたことはあったの。彼、そこの角にあるジョー・ベルのバーによく来ていたのよ。誰にも話しかけずに、ただそこに立っていて、ホテル暮らしをしている人みたいだったわ。でも、思い返してみると、おかしいのよ。あの人、私をじっと眺めていたんですって。というのもね、彼が刑務所に送られて、(ジョー・ベルは新聞に載ってる彼の写真を見せてくれたわ。黒手組とかマフィアとか、わけのわからない言葉が載っていて、結局、彼は5年の懲役を言い渡されたんだけど、)その直後に弁護士から電報が届いたのよ。私のためになる話があるから、すぐに連絡してって」

「誰かが君に100万ドルの遺産を遺していたとでも思ったのかい?」

「全くそんな風には思わなかったわ。バーグドルフが洋服代を請求してきたんだわって思ったのよ。でも私は思い切って、その弁護士に会いに行ったわけ。(本物の弁護士なのか、あやしいものね。だって事務所がないみたいなのよ、いつもハンバーグ・ヘブンで会いたいって言うの。なにしろ彼は太ってるのよ。ハンバーガーを10個と、野菜のつけ合わせを2皿と、それからレモン・メレンゲパイを丸々1個平らげるのよ。)彼に寂しい老人を元気づけてほしいって言われたわ。代わりに週に100ドルくれるからって。だから、私は言ってやったの。どちらのミス・ゴライトリーをお探しですか?って。私はそっち方面の、いやらしいお世話をする看護婦ではないのよ。謝礼金なんかで私は動かされなかったわ。化粧室に何度か行くだけで、それくらい稼げるわ。ちょっと粋な紳士なら、女の子がお手洗いに行く時にチップとして50ドルはくれるわ。私はいつもタクシー代もおねだりするから、もう50ドルよ。でもね、その時、彼が依頼人はサリー・トマトだって言ったのよ。サリーはいつも遠くから私を眺めて憧れていたんですって。もし私が週に一度、彼に面会に行けば、それは善い行いを積むことにならないかって言われたら、嫌とは言えなかったわ。それってロマンチックすぎるじゃない」

「よくわからないけど、本当の話だとは思えないよ」

彼女は笑みを浮かべた。「私が嘘をついていると思ってるのね」

「第一、誰でも囚人に面会できるわけないよ」

「ああ、そうね、できないわ。実際、つまらないごたくを並べられて、入れてくれないわ。私は彼の姪ってことにしてるのよ」

「そんな単純なことなのかい? 1時間話すだけで彼は君に100ドルくれるっていうの?」

「彼からじゃないわ、弁護士を通してよ。私がお天気情報を伝えると、すぐにオショーネシーさんが私に現金書留を送ってくれるのよ」

「君は色々と面倒なことに巻き込まれると思うよ」と僕は言って、部屋の明かりを消した。朝日が部屋の中に入り込み、もう明かりは必要なかった。鳩が非常階段でクルックーと鳴いていた。

「どういうこと?」と、彼女は深刻そうに言った。

「身分をいつわると何かの罪になるはずだよ。そもそも君は彼の姪じゃないんでしょ。それにそのお天気情報ってなんなの?」

彼女はあくびをすると、口を軽く叩いた。「なんでもないのよ。ただ電話の応答サービスにメッセージを残しておくだけよ。それでオショーネシーさんが、私が面会に行ったことを確認するの。サリーに言われた通りに言うのよ。たとえば、キューバにはハリケーンが来ているとか、パレルモでは雪が降っているとか。心配しないで、ダーリン」彼女はベッドに向かって歩み寄りながら言った。「私は長い間ずっと自分のことは自分でちゃんとやってきたんだから」

朝の光が彼女の体を通して屈折しているように見えた。彼女が掛け布団を僕の顎のところまで引っ張った。その時の彼女は透き通った子供のように煌めいていた。それから、彼女は僕の隣に横たわった。

「こうしていてもいいかしら? ちょっと休みたいだけなの。もう何も言うのはやめましょう。眠っていいわよ」

僕は寝たふりをした。僕は意識的に深く、一定のリズムで呼吸をしていた。隣の教会の時計塔が30分おきに鐘を鳴らし、1時間が経った。

6時になった時、彼女は僕の腕に手を置いた。僕を起こさないように気をつけて、そっと触れるように。

「かわいそうなフレッド」と彼女は囁いた。僕に話しかけているようだったが、そうではなかった。

「どこにいるの? フレッド。寒いんだから。吹雪いているわ」

彼女は頬を僕の肩に寄り添うように押し当てた。その重みは温かく濡れていた。

「どうして泣いているの?」

彼女はさっと身を引いて、体を起こした。「ああ、まったくもう」と彼女は言って、窓と非常階段の方へ歩いていった。「私、色々聞いてくる人って大嫌いなの」


翌日の金曜日、帰宅すると、僕の部屋の前に〈チャールズ・アンド・カンパニー〉の凄く豪華なバスケットが置かれていて、あの「ミス・ホリデー・ゴライトリー、旅行中」という彼女の名刺が添えられていた。

その名刺を裏返すと、意外にも、ぎこちない幼稚な筆跡でこう走り書きされていた。「あなたに感謝します、フレッド。昨夜のことはどうかお許しください。あなたはずっと天使のように親切にしてくれたわ。千の優しさを込めて、ホリーより。追伸、もうお邪魔しません」

僕は「また来てください」と返事を書いた。そして僕が買える程度の街頭売りのスミレの花束とともに、その紙切れを彼女の部屋の前に置いた。

しかし、どうやら彼女は本気でそう書いたらしく、しばらくの間、彼女を見かけることも、彼女から連絡が来ることもなかった。きっと彼女は階段下の玄関の鍵も手に入れたんだろうな、と思った。

いずれにしても、彼女は僕の部屋のベルを鳴らさなくなったのだ。僕はそれを寂しく思っていたのだが、日が経つにつれて、じわじわと彼女に対して、いわれのない憤りを感じ始めた。まるで親友に無視されているような気分だった。

落ち着かない孤独感が僕の生活に入り込んできた。それでも、昔から知っている友人に会いたいという気も起こらなかった。今では彼らは塩気もなく砂糖気もない食事のような存在に思えていたから。

水曜日までには、ホリーのことで頭がいっぱいになっていた。シンシン刑務所とサリー・トマトのことや、化粧室に行く女性に50ドル手渡す男たちのいる世界のことが繰り返し頭をよぎり、仕事が手につかないほどだった。

その夜、僕は彼女の郵便受けにメッセージを入れた。「明日は木曜日だよ」と。

翌朝、嬉しいことに彼女から二枚目のメモが僕の郵便受けに入っていた。そこには子供っぽい筆跡でこう書かれていた。「思い出させてくれて感謝します。よかったら今夜6時頃、一杯飲みに私の部屋にいらっしゃいませんか?」

僕は6時10分まで待ち、それから、さらに5分経ってから、わざと遅れて行った。

見知らぬ男が彼女の部屋のドアを開けた。彼から葉巻とクニーシェのコロンの匂いがした。彼の靴はヒールがやたらと高かった。あのような身長を数インチも高く見せる靴を履いていなければ、彼の印象はだいぶ変わり、小人に見えることだろう。彼のはげた斑点のある頭は小人の頭みたいに大きく、その両脇には、先がとがっていて、まさに小妖精のような耳がついていた。彼はペキニーズ犬のような、情のない感じの、少し飛び出た目をしていた。耳からも鼻からも毛が飛び出していて、彼の顎は午後になって生えてきたひげで灰色だった。それから、握手した彼の手はほとんど毛で覆われていた。

「あの子はシャワーを浴びてるよ」と彼は言って、葉巻を挟んだ指で水の音がする方を差した。別の部屋からシャーという水音が聞こえていた。

僕たちが立っていた部屋は、(座るものがなかったので立っていたのだが、)ついさっき引っ越してきたばかりといった様子で、まだ乾いていないペンキの匂いがしてきそうな部屋だった。スーツケースと、まだ開けていない木製の箱がいくつかあるだけで、家具らしきものはなかった。それらの木箱がテーブルとして使われていた。箱の上には、混ぜ合わせてマティーニを作るためのお酒が置かれていた。

別の箱の上には、ランプと、リバティーフォンと、ホリーの赤茶色の猫と、花瓶が載っていて、花瓶には黄色いバラが数輪生けられていた。壁の一面が本棚になっていて、書籍が誇らしげに、一つの棚の半分を占めていた。僕はすぐに心がなごむ部屋だと感じ、その借りの住まい的な雰囲気が気に入った。

その男は咳払いした。「君は招待されてるのか?」

彼は僕のうなずき方が曖昧だったのを見て取った。彼は冷ややかな視線で僕の体を、手術でスパッと切り込むかのように見てきた。

「いろんなやつがここに来るんだが、大体、招待されていないやつらだ。あの子と知り合って長いのか?」

「あんまり長くはないけど」

「そうか、あの子と長い付き合いではないんだな?」

「僕は上の部屋に住んでいるんです」

そう答えたのは正解だったらしく、彼は緊張が解けたようだった。

「君の部屋も同じ間取りか?」

「ここよりずっと狭いです」

彼は葉巻の灰を床に落とした。

「ここはしけたアパートだ。こんなところに住むなんてありえない。しかし、あの子は金を手に入れてもなお、まともな暮らし方がわからないんだ」彼の演説風の話しぶりには耳ざわりな金属性のリズムがあり、テレタイプを思わせた。

「それで」と彼は言った。「君は彼女のことをどう思う? 彼女はあれなのか、そうじゃないのか?」

「彼女がなんですか?」

「まやかしかってことだよ」

「そんな風に思ったことはないです」

「君は間違ってるよ。彼女はまやかしなんだ。しかし、その一方で君は正しくもある。彼女はまやかしではない。なぜなら彼女は本物のまやかしだからな。彼女は自分が信じるものは、がらくただろうとなんだろうと、全部信じるんだよ。馬鹿げてるからやめろって言っても、誰も彼女を説得できやしない。俺は頬に涙を流しながら、彼女に言い聞かせようとしたんだ。ベニー・ポーランも試みた。どこに行っても尊敬を集めるベニー・ポーランでもだめだったんだ。ベニーは内心、彼女と結婚したかったんだが、彼女は全く乗り気じゃなかった。ベニーはたぶん何千ドルも払って、精神科医のところに彼女を連れて行ったんだ。でも、あの有名な医者でさえ、ドイツ語しか話せない医者なんだが、そいつでさえお手上げだった。君だってできやしないよ」彼は拳を握った。見えない何かを叩きのめそうとしているかのようだ。「彼女の考え方を変えるのは君にも無理だよ。いつかやってみるといい。彼女が信じているくだらないことを聞き出してみな。忘れずにな」と彼は言って、さらに続けた。「俺はあの子が好きなんだ。みんな彼女を好きになる。彼女のことが好きじゃないやつだってたくさんいるが、俺は好きだ。心からあの子が好きなんだ。俺は感受性が強いからな、だからだよ。彼女の良さを正しく理解するには感受性が必要なんだ。詩人性と言ってもいい。しかしな、君に真実を教えておこう。君はあの子のために知恵をしぼって、あれこれ手をつくすだろうが、彼女は君に馬鹿げた見返りしかよこさないぞ。たとえば、そうだな、君の目には彼女はどんな子に見える? 睡眠薬のセコナールを瓶の底まで飲みつくしたあげく新聞に載るような、彼女はまさにそういう女の子なんだ。俺はそういうことが起こるのを、君が足の指まで使って数えても数え切れないくらい何度も目にしてきたんだよ。そういう子たちはみんな、いかれてなんかいなかった。ただ、彼女はいかれてるよ」

「でも若いじゃないですか。彼女の目の前には、まだまだ若さ溢れる膨大な時間が広がっていますよ」

「もし彼女の将来について言ってるのなら、君はまた間違っている。もう2年も前になるが、彼女が西海岸にいた時、将来が変わるかもしれないチャンスがあったんだ。状況が彼女を後押ししていたし、映画関係の連中も彼女に興味を持っていた。彼女はその流れに乗ることができたんだ。しかしな、そんな時に、あんな風に、ばっくれて、どこかに行っちまったら、もう戻れないんだよ。ルイーゼ・ライナーに聞いてみな。スターだったライナーでさえ戻るのが大変だったんだ。ましてやホリーはスターどころか、スチール写真の仕事以外はまだやったことがない駆け出しだった。あれは『軍医ワッセル大佐』の撮影直前だったよ。あの時、彼女は波に乗ることができたんだ。俺にはわかるんだよ、いいか、彼女を後押ししてやったのは、この俺だからな」彼は自分に葉巻を向けた。「俺はO.J.バーマンだ」

彼はそこで僕が彼を認識するのを期待していた。僕としても彼の望み通りの反応をしてもよかったのだが、ただ、O.J.バーマンという名前を聞いたことは一度もなかった。あとでわかったことだが、彼はハリウッドで俳優の代理人をしていた。

「彼女に最初に目をつけたのは俺なんだ。サンタアニタ競馬場でな。彼女は毎日競馬場のトラックの辺りをうろついていて、俺は興味を持った。あくまでも仕事としてスカウトしたかったんだ。彼女はある騎手と付き合っていて、そいつと一緒に暮らしていることがわかった。つまらないやつだったよ。俺がそいつに話をつけたんだ。不道徳な行為を取り締まってる連中とお話したくなかったら、おとなしく彼女から手を引きなってな。なにしろ彼女はまだ15歳だったからな。それにしても彼女には光るものがあった。申し分なく売れると思ったよ。たとえこんなに分厚いメガネをかけていたって、口をぽかんと開けていたって、彼女が山岳地帯出身だろうが、オクラホマ出身だろうが、どこ出身だろうと、そんなこと関係なく彼女は輝いていた。俺は今でも彼女の出身地を知らないし、おそらくこれからも、彼女がどこから来たかなんて誰にもわからないだろうな。彼女はとことん嘘をつくからな。嘘をつきすぎて、どれが本当のことなのか自分でもわからないんじゃないか。ただ、あのひどいなまりを直すのに1年もかかったよ。最終的に効果があったのは、フランス語のレッスンを受けさせることだった。フランス語の口真似ができるようになると、すぐに英語の口真似もできるようになったよ。なんとか彼女をマーガレット・サラヴァンみたいな女優に仕立て上げようとしたんだ。ただ、彼女には他の誰にもない素質があった。それで、みんなが興味を持ったんだ。大物連中もな。その筆頭格がベニー・ポーランだった。みんなに尊敬されてるベニーが彼女との結婚を望んだんだ。代理人としても光栄なことだったよ。それからドカンだ! 『軍医ワッセル大佐』は見たか? セシル・B・デミル監督、ゲイリー・クーパー主演だ。豪華だろ。俺は身を粉にして根回ししたよ。準備は整って、彼女はドクター・ワッセルの看護婦役でカメラテストを受ける手はずになっていたんだ。まあ、看護婦の一人だったがな。そしたらドカンだ! 電話が鳴ったよ」彼は空中で受話器を取る仕草をして、それを耳に当てた。「ホリーよ、と彼女は言う。ハニー、なんだか声が遠いじゃないか、と俺は言う。今ニューヨークにいるのよ、と彼女は言う。いったいニューヨークで何やってるんだ? 今日は日曜日で、明日はカメラテストの日だぞ、と俺は言う。私、ニューヨークに一度も来たことがなかったから、来ちゃったのよ、と彼女は言う。すぐに飛行機に飛び乗って、さっさと戻ってこい、と俺は言う。嫌よ、と彼女は言う。何をたくらんでいるんだい? お嬢ちゃん、と俺は言う。あなたは仕事をうまく進めたいんでしょうけど、私は望んでいないのよ、と彼女は言う。じゃあ、君はいったい何を望んでいるんだ? と俺は聞く。そして彼女は言う、それがわかったら、真っ先にあなたに教えるわ。どうだ、俺の言いたいことがわかるか、つまり、彼女は全くナンセンスなんだよ」

赤茶色の猫が木箱から飛び降りて、彼の足に体をこすりつけた。彼は靴のつま先で猫を持ち上げて、そのままぽんと放り投げた。それはひどい行為だったが、彼は猫なんか気にも留めていないらしく、自分自身のいら立ちだけが頭にあるようだった。

「これが彼女の望んでいたことなのか?」彼は両腕を大きく広げて言った。「招かれてもいないのに、いろんなやつがやって来て、チップをもらって生活して、遊び人たちと遊び回ることを望んでいたのか? そうして彼女はラスティー・トローラーと結婚するんだろうな。そしたら名誉の勲章を彼女の首にかけてやるべきか?」彼はじっと僕をにらみながら、僕が何か言うのを待っていた。

「すみません、その人が誰なのかわからないです」

「ラスティー・トローラーのことも知らないのか? 君はあの子のことを全然知らないんだな。話にならない」と彼は言って、巨大な頭の中に響かせるように舌打ちした。「君なら、何か良い影響をもたらしてくれると期待したんだ。手遅れになる前に、あの子をまっとうな人間にしてくれるってな」

「でも、あなたの話によると、もう手遅れなんですよね」

彼は口から煙の輪を飛ばして、それが消えるのを待ってから微笑んだ。その微笑みが彼の顔つきを変えた。内側にあった優しさがにじみ出てきたようだった。

「俺はもう一度なんとかしてやれると思ってるんだ」と彼は言ってから、こう続けた。今度は本気で言っているように聞こえた。「さっきも言っただろ、俺は心からあの子が好きなんだ」

「どんな陰口を広めているのかしら? O.J」ホリーが水滴を辺りに飛ばしながら部屋に入ってきた。タオルを体にどうにかこうにか巻きつけている。床に彼女の濡れた足跡ができた。

「いつもの話だよ。君がいかれてるって話してたんだ」

「フレッドはもうそんなこと知ってるわよ」

「しかし君自身はまだわかってないだろ」

「タバコに火をつけてくれるかしら、ダーリン」と彼女は言って、シャワーキャップをさっと取ると、髪を振った。「あなたに頼んでるんじゃないわ、O.J。あなたって下品なのよね。いつもタバコの吸い口を唾液で濡らすんだもの」

彼女は猫をすくい上げると、自分の肩にひょいと載せた。猫は鳥のようにうまくバランスをとって、肩につかまっていた。前足を彼女の髪の毛にもつれさせている。その様子はまるで糸を編んでいるようだった。しかし、そんな愛嬌のある、おどけた仕草にもかかわらず、猫の顔には海賊のような凄みがあって、ぞっとした。片方の目は接着剤を塗ったようにふさがっていて、もう一方の目は悪事を隠しているかのようにギラリと光っていた。

「O.Jは不潔なのよ」と彼女は僕に言って、僕が火をつけたタバコを受け取った。「でもね、彼はもの凄くたくさんの人の電話番号を知ってるのよ。デヴィッド・O・セルズニックの番号は何番だったかしら? O.J」

「からかうのはやめてくれ」

「からかってなんかいないわ、ダーリン。彼に電話してほしいのよ。彼にフレッドは天才だって伝えてほしいの。彼はもの凄い数の最高に素晴らしい物語を書いてるのよ。あら、照れないで、フレッド。あなたが自分で天才だって言わないから、私が言ってあげたのよ。ねえ、O.J、なんとかフレッドをお金持ちにしてあげられないかしら?」

「そういうことなら、俺とフレッドで話をつけさせてくれないか」

「覚えておいて」と、彼女は僕たちから遠ざかりながら言った。「私が彼の代理人なのよ。もう一つ、私が大声で呼んだら、背中のファスナーを上げに来てちょうだい。それから、誰かがノックしたら、中に入ってもらって」

たくさんの人が訪ねてきて、15分もしないうちに部屋は男たちで溢れかえった。軍服を着ている男も何人かいる。数えてみると、海軍将校が二人と空軍大佐が一人いたが、後から次々と、徴兵年齢をすでに過ぎている上の世代の男たちがやって来て、軍服の彼らは少数派となった。若さが欠けていることを除けば、訪問客たちにこれといった共通点はなく、彼らはみんな他人同士のようだった。実際、男たちは部屋に入ってくると、お互いの顔を見て、そこに他の男がいることにうろたえた表情を見せた。それから、なんとかそれを押し隠して平静を装っていた。あの女主人があちこちのバーをはしごしながら、招待状を配りまくったのではないかと思えてきた。おそらく実際にそういうことだったのだろう。しかし、最初は顔をしかめるものの、彼らは不満を口にすることもなく、お互いに打ち解けていった。

特にO.J.バーマンは、僕のハリウッドにおける脚本家としての将来について話し合うことを避けて、新しくやってきた男たちに熱心に声をかけていた。

僕は本棚の脇に一人で放っておかれた。そこに並んでいる本の半分以上は競馬に関する本で、残りは野球に関する本だった。『馬体とその見分け方』という本を手に取り、それに興味を持ったふりをしながら、僕は一人でじっくりとホリーの友人たちを品定めするように観察していた。

やがて一人の男が特に目につくようになってきた。彼は幼児の脂肪が中年になっても残ったままの子供のような男だった。どこかの腕のいい洋服屋が仕立てたスーツが、彼の肉付きのよい、思わず叩きたくなるようなお尻を上手に隠していた。彼の体に骨が通っているとは思い難(がた)く、顔の内側にも骨など全く埋められていないかのようだった。可愛らしく、こじんまりとした目鼻立ちの顔には、まだ手つかずの処女のような質感があった。まるで彼は生まれたままの姿でふくらんだかのようで、膨張した風船みたいに肌にはしわ一つなく、彼の口は今にもわめき声を上げ、かんしゃくを起こしそうな気配もあって、あどけない甘えん坊のように唇はすぼまっていた。

しかし、彼がひときわ目立っているのは外見のせいだけではなかった。外見に幼児性を残している男はそれほど珍しくもない。むしろ彼の立ち振る舞いが目を引いた。というのも彼は、そのパーティーの主(ぬし)が自分であるかのように行動していたのだ。活発に動くタコのように、彼はマティーニを振って作ったり、人を紹介したり、レコードプレーヤーを操作したりしていた。

率直に言えば、彼は女主人に指図されるままに動き回っていたのだ。「ラスティー、お願いしていいかしら? ラスティー、これも頼むわ」

もし彼が彼女に惚れているのなら、彼は嫉妬心を内側にうまく抑え込んでいたはずである。嫉妬深い男なら、彼女が部屋中を滑るように歩き回っている姿を見て、自制心を失っていたかもしれない。彼女は片手で猫を抱きながら、もう片方の手で、男たちのネクタイを直したり、襟についた糸くずを取ったりしていた。空軍大佐は身につけている勲章を彼女に磨いてもらっていた。

その男の名前はラザフォード(ラスティー)・トローラーといった。1908年に彼は両親を亡くした。父親は無政府主義者の犠牲となり、母親はそのショックが元で亡くなった。その二重の不幸により、ラスティーはわずか5歳にして孤児となり、億万長者となり、有名人となった。それ以来、彼は新聞の日曜特集にネタを提供してくれる人物となった。まだ小学生だった時、彼は名付け親であり後見人でもある男に同性愛的行為をされたと訴えて、その男が逮捕された。それを契機に彼は爆発的に世間の注目を集めた。その後、彼は結婚と離婚を繰り返し、日曜日のタブロイド紙をにぎわし続けた。彼の最初の妻は、離婚によって得た扶養手当と自らの身を、〈ファーザー・ディバイン〉のライバル教団に捧げた。二番目の妻についてはどうなったのかわからないが、三番目の妻は彼をニューヨーク州の裁判所に訴えた。彼女は証拠書類を鞄いっぱいに詰め込んで法廷に現れた。最後のトローラー夫人に関しては、彼の方から訴訟を起こして離婚したのだが、彼の主な申し立ては、彼女がヨットの上で反乱を起こしたというものだった。その反乱の結果、彼はドライ・トートガス諸島に置き去りにされたそうだ。それ以来、彼は独身を通していたが、戦争が始まる前に、ユニティ・ミットフォードにプロポーズしたことがあるようで、少なくとも、ケーブルを通じて、「もし君がヒトラーと結婚しないのなら、僕と結婚してほしい」という電報を彼女に送ったらしい。ウィンチェルが彼のことをいつも「ナチ」と呼ぶのは、このことが原因だと言われている。それと、彼がヨークヴィルでのナチの集会に何度か参加したという事実もあるようだ。

僕はこれらのことを人から聞いたのではない。僕は野球のガイドブックで、そういうあれこれを読んだのだ。ホリーの本棚から引き抜いたその本を、彼女はスクラップ・ブック代わりに使っているようだった。ページの間に挟み込まれていたのは、日曜版の特集記事やゴシップ欄の切り抜きだった。

「ラスティー・トローラーとホリー・ゴライトリーが『ヴィーナスの接吻』の初演を通路側の席で二人並んで鑑賞」

ホリーが背後からやって来て、僕がそれを読んでいるのを見つけた。

「ボストンのゴライトリー家のミス・ホリデー・ゴライトリーは、大富豪ラスティー・トローラーの毎日をホリデー(休日)に変える」

「私の評判に感心しているの? それともただの野球ファンかしら?」と言って、彼女はサングラスに手をやりながら、僕の肩越しに覗き込んできた。

僕は「今週のお天気情報はどうだった?」と聞いてみた。彼女は僕にウィンクしたが、彼女の目は笑っていなかった。警告の目配せだと感じた。「私は競馬は大好きだけど、野球は好きじゃないわ」と彼女は言っていたが、その声の裏で、「この前話したサリー・トマトのことは忘れてちょうだいね」と暗に言っているようだった。

「ラジオから流れてくる野球中継を聞くのも嫌なのよ。でも聞かないわけにはいかないでしょ。私が知りたいことの一部でもあるのよ。男の人が話すことって凄く限られてるじゃない。もし野球が好きじゃない人だったら、競馬が好きに違いないわ。どちらも好きじゃない人だったら、そうね、そしたら困ってしまうわ。そういう人って、そもそも女の子が好きじゃないのよね。それで、O.Jとはうまく話したの?」

「僕たちはお互いに同意して別れたよ」

「彼はチャンスをくれるわ。私を信じて」

「君のことは信じてるよ。でも、チャンスをくれるとしても、彼の心を打つようなものを僕が差し出せると思うかい?」

彼女は引き下がらなかった。「彼のところに行って、彼はおかしな外見をしてないって思わせてあげるの。そうすれば、彼はきっとあなたの力になってくれるわ。フレッド」

「君だって、彼にそこまで感謝してないんだよね」

彼女が不思議そうな顔をしたので、僕は『軍医ワッセル大佐』のことを話した。

「あの人はまだそのことをくどくど言ってるの?」と彼女は言って、部屋の向こう側にいるバーマンに向かって、愛情のこもったまなざしを投げかけた。

「でも彼の言うことにも一理あるわね。私は罪悪感を持つべきだわ。せっかく役をもらったのに、うまく演じることができたのにって、そういうことを思っているわけじゃないのよ。私はカメラテストで落ちただろうし、たとえ受かったとしても、うまく演じることなんてできなかったわ。私が罪悪感を持つとしたら、それは、私自身は少しも夢見ていないのに、ずっと彼に夢を見させちゃったことに対してだと思うの。少しは自分磨きになるかなと思って、しばらくの間、男の人たちに頼っていただけなのよ。映画スターになんかなれないってことは凄くよくわかっていたわ。とても難しい仕事だし、賢明な人なら恥ずかしくてやらないわね。恥ずかしさを受け入れるほどの劣等感は私にはないわ。映画スターって、凄く大きなエゴがないとやっていけないって思われてるけど、実際はエゴを持たないことが肝心なのよ。お金持ちや有名になりたくないわけじゃないの。ゆくゆくはそうなりたいっていう計画もあるし、回り道してもいつかはそうなるつもりよ。でも、もし私がお金持ちになったり、有名になったりしても、私は自分のエゴを捨てるつもりはないわ。ある晴れやかな朝に目覚めて、ティファニーで朝食を食べる時にも、今の私のままでいたいの。あなた、グラスを持ってないじゃない」彼女は僕の手が空いているのに気づいて言った。「ラスティー! 私のお友達にお酒を持ってきてくれるかしら?」

彼女はまだ猫を抱きかかえていた。「かわいそうな子猫ちゃん」と、彼女は猫の頭をくすぐりながら言った。「かわいそうに、この子には名前もないの。名前がないと、ちょっと不便よね。でも私にはこの子に名前をつける権利はないわ。ちゃんと誰かがこの子を飼ってくれるまで名前はお預けね。私とこの子はね、ある日、川のほとりで出会ったの。私たちはお互いにどちらのものでもないわ。この子は独立しているし、私もそうよ。私は自分と他のものが共存できる場所を見つけるまでは、ここだって思うまでは、なんにも所有したくないの。今はまだ、それがどこにあるのかわからないんだけどね。でも、そこがどんなところかはわかるわ」

彼女は微笑んで、猫を床に放してあげた。

「そこはティファニーみたいなところなの」と彼女は言った。「宝石に目がないとか、そういうことじゃないの。ダイヤモンドは素敵よ。でも、40歳になる前の女性がダイヤモンドを身につけても悪趣味よね。40歳を過ぎても身につけるのはリスクがあるわ。ダイヤモンドは素敵に年を取った女の子にこそ似つかわしいものよ。マリア・オースペンスカヤとか似合いそうね。しわが寄って骨張っていて白髪で、それでダイヤモンドを身につけていたら最高ね。今から年を取るのが楽しみだわ。でもね、私がティファニーに夢中なのは、そういう理由からじゃないの。ねえ、聞いて。たまにさもしい気分っていうか、赤い気分になる時ってあるでしょ?」

「それってブルーな気分と同じかな?」

「違うわ」彼女はゆっくりとした口調で話した。「ブルーな気分っていうのは、太っちゃった時とか、あとは、そうね、雨がいつまでも降り続いたりする時になるのよ。悲しくなるけど、ただそれだけ。でも、あの嫌な赤い色をした気分っていうのはね、ぞっとするほど恐ろしいの。怖くなって、めちゃくちゃに汗が吹き出て、でも、何が怖いのかわからないの。何か悪いことが起ころうとしているのはわかるんだけど、それが何なのかわからないのよ。あなたはそういう感覚になったことあるかしら?」

「しょっちゅうなるよ。それを専門用語で不安感って呼ぶ人もいるね」

「さすがね。不安感。でも、そういう気分の時、あなたはどう対処するの?」

「そうだな、酒がまぎらわしてくれる」

「それは私も試してみたわ。アスピリンを飲んでみたこともあるわよ。ラスティーはマリファナが効くって言うから、少しの間だけど、吸ってみたこともあるの。でも、ただくすくす笑っちゃうだけだったわ。私が見つけた一番効果のある方法はね、タクシーに飛び乗って、ティファニーに行くことよ。そうすると、すぐに気分がすっと落ち着くの。静かで誇らしげな店内。そこでは悪いことは何も起きないだろうって思えるの。素敵なスーツを着た親切な男の人たちがいて、銀製品やワニ皮の財布から漂う、うっとりするような香りに包まれていれば、悪いことなんて起きるはずないわ。ティファニーにいる時のような心地にさせてくれる、そんな場所が実生活でも見つかったら、家具を買って、猫に名前をつけてあげるつもりよ。考えてることがあるの。たぶん戦争が終わった後になると思うけど、フレッドと私で」彼女はサングラスを押し上げた。あらわになった彼女の瞳は、いろんな色が混じっていて、灰色と、かすかに青と緑色も入っていた。遠くを見つめるようなその眼差しには鋭さがあった。「一度メキシコに行ったことがあるの。馬を育てるには素晴らしい国だわ。海の近くにいい場所を見つけたの。フレッドは馬を飼うのが上手なのよ」

ラスティー・トローラーがマティーニを持ってやって来た。そして僕の顔を見ずに、それを差し出してきた。

「お腹すいちゃったよ」と彼は大きめの声でホリーに伝えた。彼の声は体の他の部分と同様に幼稚だった。相手が反論する気をなくすような子供っぽい言い方で、ホリーを責めている感じだ。「もう7時半だよ。僕はお腹ぺこぺこだよ。医者がなんて言ったか覚えてるよね?」

「ええ、ラスティー。お医者さんが言ったことなら覚えてるわよ」

「よし、じゃあ、ここはお開きにして、食事に出かけよう」

「お行儀よくしてちょうだいね、ラスティー」ゆっくりとした口調だったが、彼女の言い方には、女性家庭教師がお仕置きをほのめかしながら子供を𠮟りつけているような響きもあった。すると彼の顔が、感謝からか、それとも快感なのか、奇妙にピンク色に染まっていった。

「僕のことが好きじゃないんだね」と、彼は愚痴をこぼすように言った。あたかも彼らは二人きりでいるかのようだ。

「わがままな人は誰にも好かれないわよ」

彼女はまさに彼が聞きたいことをずばり言っているようだった。彼女の発する言葉が彼を興奮させ、そして彼を落ち着かせもした。

それでも彼は、いつもの決まり事のように続けて聞いた。「僕のこと愛してる?」

彼女は彼の頭をなでた。「しっかりみなさんをおもてなししてちょうだい、ラスティー。私の支度ができたら、あなたの好きなところに食べに行きましょう」

「チャイナタウン?」

「いいけど、スペアリブの甘酢煮はだめよ。お医者さんがなんて言ったか覚えているわよね?」

ラスティーが満足そうによたよたと歩いて雑用に戻っていくと、僕は彼女が答えなかった彼の質問を、もう一度彼女に聞かずにはいられなかった。

「君は彼を愛しているの?」

「あなたに言ったことあるわよね。相手がどんな人だって、愛そうと思えば愛せるのよ。それに、彼はとても辛い少年時代を送ったのよ」

「そんなに辛い過去だったら、どうして彼はいまだに過去にしがみついているんだい?」

「頭を使いなさいよ。わからないの? ラスティーはスカートをはくより、おむつをはいていた方が安心するのよ。本当はね、スカートをはく方が自然な選択なんだけど、彼はそのことに触れられると、凄く怒るの。あの人、バターナイフで私を刺そうとしたこともあるのよ。私が彼に、大人になって自分の問題と向き合いなさい、身を固めて、素敵なお父さんタイプのトラック運転手と、仮でもいいから家庭を築きなさいって言ったら、バターナイフを向けてきたの。それでとりあえず、私が彼の面倒を見ることになったのよ。それはいいのよ、彼は害のない人だもの。彼は女の子のことをお人形だと思っているの。大袈裟ではなく実際にそうなのよ」

「神に感謝するよ」

「そうかしら、男の人がみんな、あんな感じだったら、私は神に感謝なんてできないわ」

「僕は君がトローラーさんと結婚するつもりがないとわかって、神に感謝しているんだよ」

彼女は片方の眉をつり上げた。「ついでに言っておくと、彼がお金持ちだってことを私は知らないふりなんてしてないわよ。メキシコの土地だって、それなりにお金がかかるわ。さあ、今よ」と言って、彼女は僕を前にうながした。「O.Jをつかまえて話しましょう」

僕はO.Jと話すのをためらい、なんとか後回しにする方法はないかと頭を働かせた。その時、思い出した。「なぜ旅行中なの?」

「私の名刺のこと?」と、彼女は面食らったように言った。「あの名刺、何か変かしら?」

「変ではないよ。ただ、興味をそそられるね」

彼女は肩をすくめた。「結局、私が明日どこで暮らしているかなんて、私にもわからないわ。だから、旅行中って印刷してもらったの。いずれにしても、あんな名刺を注文したのはお金の無駄だったわ。何かちょっとしたものでもいいから、あそこで何かを買わなくちゃって思ったの。何も買わないと、なんだか借りを作るみたいでしょ。あの名刺はティファニーで作ってもらったのよ」

彼女は僕のマティーニに手を伸ばした。僕はまだ口をつけてもいなかったが、彼女は二口でそれを飲み干すと、僕の手を取った。

「ぐずぐずしないで。ほら、O.Jとお友達になるのよ」

その時、行く手を邪魔するかのように、玄関で何かが起こった。一人の若い女性が疾風のごとく、スカーフをなびかせ、貴金属をジャラジャラと鳴らしながら部屋に飛び込んできた。

「ホ、ホ、ホリー」と言って、彼女は立てた人差し指を振りながら前進してくる。「あなたはなんて、よ、よ、欲張りなのよ。こんなにう、う、うっとりするようなお、お、男の人たちを一人占めにしてるなんて!」

彼女の身長は6フィートを優に超えていて、そこにいるほとんどの男よりも高かった。男たちは背筋をピンと伸ばして、お腹をへこませた。彼女のゆさゆさと揺れる体と、なんとか全身で張り合おうという競争が繰り広げられていた。

ホリーは「あなた、ここでいったい何してるのよ?」と言って、唇をピンと張られた弦のように真一文字に結んだ。

「あら、た、た、たまたまなのよ、あなた。私は上の階でユニオシさんと仕事をしてたのよ。バ、バ、『バザール』のクリスマス用の写真を撮ってもらっていたの。あなた、そんなにかりかりしちゃって、どうしたの?」

彼女は周りの男たちに笑顔を振りまいた。「ねえ、み、み、みなさん、私がみなさんのパ、パ、パーティーに飛び入り参加しちゃって、ご迷惑だったかしら?」

ラスティー・トローラーがくすくす笑った。彼は彼女の筋肉にほれぼれしているかのように、彼女の腕をぎゅっとつかんだ。そして、何か飲みますかと彼女に訊ねた。

「もちろんいただくわ」と彼女は言った。「バーボンを作ってくださる?」

ホリーは彼女に「バーボンなんてないわ」と言い放った。

すると、空軍大佐がちょっと外に行ってボトルを買ってきますよ、と申し出た。

「あら、いいんですよ、そこまでしてもらうわけにはいかないわ。私はアンモニア水で満足よ。ねえ、ホリー」と、彼女はホリーを軽くつつきながら言った。「私のことは気にしないでちょうだい。自己紹介くらい自分でできるわ」

彼女はO.J.バーマンに向かって身を屈めた。背の低い男が背の高い女性と向き合うと大抵そうなるが、彼は羨望のまなざしで、ぼんやりと彼女を見上げていた。

「私はマグ・ワ、ワ、ワイルドウッドっていうの。アーカンソー州のワイルド、ウ、ウ、ウッド出身よ。山国から来たのよ」

ダンスを踊っているかのように、バーマンは他の男が二人の間に割り込んでくるのをうまくかわしながら、彼女と話していた。

やがて、彼女はまるでカドリールを踊るように、彼から離れ、他の男たちの前へと移っていった。鳩に投げ与えられるポップコーンのような彼女のどもりがちの冗談を、彼らはむさぼるように聞いていた。それは誰が見ても納得の成功だった。彼女は醜さに勝利したのだ。そういう女性が本当に美しい人よりも男を魅了する、ということはしばしば起こる。たとえ、そこに錯覚が生じているだけだとしても。

マグ・ワイルドウッドの場合、細心の注意を払って、地味ながらも趣味の良い服を着こなし、巧みに身なりを整える、というようなことはせずに、むしろ欠点を強調することで男を魅了するという手品のような方法なのだ。つまり、彼女は欠点を大胆に受け入れることで、その欠点を煌びやかなものに変えているのだ。

たとえば、彼女は足首が震えるほどの高いハイヒールを履いて、元々の高身長を強調していたし、海水パンツだけでビーチに行けるのではないかと思わせるほどの平らな胸を示すように、体にぴったりとした服を着ていた。さらに、髪の毛を後ろできつく束ねて、彼女のファッションモデルらしい瘦せこけた顔を目立たせていた。

元々どもりはあるのだろうが、少し誇張しているふしもあり、どもりでさえ、彼女の利点となっていた。彼女のどもりは神技のようだった。それによって、まず、ありふれた言葉が幾分個性的に聞こえたし、第二に、彼女は背も高く、態度も大きいにもかかわらず、彼女のどもりを聞くと、男たちは彼女をかばってあげたくなるのだ。

例を挙げると、バーマンは彼女に「ト、ト、トイレはど、ど、どこにあるのかしら、教えて下さらない?」と言われて、むせてしまい、彼女に背中を叩いてもらうことになった。それから息が整うと、彼は腕を差し出し、案内しますよ、と申し出た。

「そこまでしてあげる必要はないわ」とホリーが言った。「彼女は前にもここに来たことあるのよ。トイレの場所くらい知ってるわ」

ホリーは置いてあった灰皿の灰を捨てていた。そして、マグ・ワイルドウッドが部屋を出ていくと、彼女が使っていた灰皿も空にした。それから、ため息をつくように言った。「本当に悲しいことだわ」彼女は間を置いた。何が悲しいのかを聞きたそうに見ている男たちの人数をざっと数えるには、十分すぎる間だった。「彼女って謎めいているのよね。謎めいていることがもっと前面に出てきてもいいはずなんだけど。でも、わからないものね、彼女は健康的に見えるのよね。ほら、とても清潔そうでしょ。それが驚かされるところなのよ」彼女は悩ましげな表情で、誰にともなく問いかけた。「彼女って清潔そうに見えるでしょ?」

誰かが咳をして、何人かがホリーの美しさに生唾を飲み込んだ。海軍将校はマグ・ワイルドウッドのグラスを預かっていたのだが、それを置いた。

「でも、そうね」とホリーは言った。「彼女みたいな南部出身の女の子たちって、大体みんな同じような問題を抱えているらしいわね」

彼女は優美に体を震わせてから、少なくなった氷を取りにキッチンへ向かった。

マグ・ワイルドウッドが部屋に戻ってくると、先ほどまで温かかった雰囲気が突如として冷めていた。彼女はどうして冷めてしまったのか理解できないままに何人かに話しかけてみたが、会話は生木を燃やすように、煙りはするが、燃え上がってくれなかった。

もっと許せないのは、男たちが彼女の電話番号を聞くこともなく、彼女から離れていくことだった。空軍大佐は彼女が後ろを向いている隙に逃げ出してしまった。これで彼女の心は打ち砕かれてしまった。先ほど、彼は彼女を食事に誘っていたのだ。

突然、彼女の目の前が真っ白になった。そして、涙によってマスカラが落ちてしまうように、体に流し込んだジンによって、彼女の策略は流れてしまった。瞬く間に彼女の魅力は消え失せていた。

彼女は誰彼かまわず八つ当たりを始めた。彼女はホリーのことを「ハリウッドの堕落女」と呼び、50代の男にけんかをふっかけ、さらにバーマンに向かって、「ヒトラーは正しい」と言った。

彼女はラスティー・トローラーを腕でぐいぐい押して、部屋の隅に追いつめたのだが、彼は嬉しそうだった。「これからあんたをどうするかわかる?」と彼女は言った。どもる気配は全くない。「これから動物園まで連れていって、あんたをヤクの餌にするんだよ」彼はまんざらでもない様子だったのだが、そこで彼女がずるずると床の上にへたり込んでしまった。残念そうな彼の足元で、彼女は座り込んだまま何かの歌を口ずさんでいた。

「あなたにはうんざりだわ。さっさと立ってちょうだい」と、ホリーは手袋を両手で引き伸ばしながら言った。

パーティーに残っていた男たちは玄関でホリーを待っていたのだが、マグが全く動こうとしないので、ホリーは僕に申し訳なさそうな視線を送ってきた。

「フレッド、お願いを聞いてくれるかしら? 彼女をタクシーに乗せてあげてちょうだい。彼女はウィンスローに住んでるの」

「そこじゃないわ。今はバービゾン・ホテルに住んでるのよ。電話はリージェント4-5700よ。私に用がある時は、マグ・ワイルドウッドって言って呼び出してもらって」

「頼むわね。感謝してるわ、フレッド」

ホリーは男たちと一緒に出掛けてしまった。

この大女を抱えて下まで連れて行き、タクシーに押し込むことを考えると、腹立たしい気持ちさえどこかに吹き飛んでしまった。でも彼女自身がその問題を解決してくれた。彼女は自力で立ち上がると、よろめきながらも高慢な態度で僕を見下ろしてきた。

彼女は「ナイトクラブに行きましょう。タクシーをつかまえて」と言ったかと思うと、斧で切り倒された樫の木のように、直立不動のまま倒れてしまった。

まず頭に浮かんだのは医者を呼ぶことだった。しかし手を当ててみると、脈拍は正常だったし、呼吸も安定していた。彼女は単に眠っているだけだった。枕を見つけてきて、彼女の頭をその上にそっと載せた。そして、ゆっくり休んでもらおうと、僕は彼女を残したまま、ホリーの部屋をあとにした。


翌日の午後、僕は階段でホリーとばったり会った。

「ちょっと、あなた」と、彼女は薬局の袋を手に持ち、足早にすれ違いながら言った。「あんなところに寝かせて。彼女、肺炎になりかけてるのよ。二日酔いで頭も痛いって言ってるし、その上、あの嫌な赤い気分にもなってるみたいなのよ」

マグ・ワイルドウッドはまだ彼女の部屋にいるのだと僕は推測した。昨日はあんなに冷たい態度をとっていたくせに、どういう風の吹き回しだろうかと思ったが、その理由を聞く間も与えてもらえず、彼女は自分の部屋に入ってしまった。

週末になって、謎はいっそう深まった。まず、ラテン系の男が僕の部屋を訪ねてきた。ミス・ワイルドウッドは元気かと聞いてきたので、部屋を間違えたのだろう。でも、なかなか彼の間違いを訂正することができなかった。というのは、言葉のアクセントがお互いに聞き慣れないものだったからなのだが、そんな風に話し込んでいるうちに、僕はすっかり彼に魅了されてしまった。

彼は神が念を入れて形作ったような人物だった。茶色い髪に闘牛士のような体つきが絶妙に合っていて、リンゴやオレンジのように、自然が織りなした完璧な姿をしていた。さらに装飾的な要素も素晴らしく、彼はイギリス製のスーツを着て、爽やかな香りのコロンをつけていた。そして、それ以上に彼がラテン系らしくないのは、彼の腰の低い態度だった。

その日、もう一つ起こった出来事にも彼がかかわっていた。夕方近くになり、僕は夕食を外で食べようと思い、アパートを出たのだが、そこで彼を見かけた。彼はタクシーで到着したところだった。タクシー運転手が手助けしながら、彼はよろよろと、いくつものスーツケースをアパートの中へ運び入れていた。

僕は考える種を与えられ、日曜日まであれこれと考え続けた。その種をしゃぶり続けた結果、僕の頭はへとへとに疲れてしまった。それから、事の成り行きが見えてきた。その輪郭が段々とはっきりしてくるにつれて、僕の気分は暗くなっていった。


日曜日は小春日和だった。日差しも強く、僕は窓を開けていた。すると、非常階段から話し声が聞こえてきた。

ホリーとマグがそこに毛布を敷いて、くつろいでいた。二人の間には猫もいた。二人の髪は洗い立てで、だらりと下に垂れていた。二人ともせっせと手を動かしていた。ホリーは足の爪にペディキュアを塗り、マグはセーターを編んでいる。

マグが話していた。「私に言わせれば、あなたはこ、こ、幸運よね。少なくとも一つ、ラスティーに関して良い点があるわ。彼がアメリカ人だってことよ」

「彼のことは良かったと思っているわ」

「ねえ、まだ戦争は続いているのよ」

「戦争が終わったら、私はもうここにはいないから、あなたとも会うことはなくなるわね」

「私はそんな風には思えない。私は自分の国をほ、ほ、誇りに思っているの。私の家族の男たちはみんな立派な兵隊さんだったわ。おじいちゃんのワイルドウッドの銅像が、ワイルドウッドの町のど真ん中に立っているのよ」

「フレッドも兵隊さんなのよ」とホリーは言った。「でもフレッドがいつか銅像になるかしらね? ありえるわ。ほら、馬鹿な人ほど勇敢だって言うじゃない。彼はかなりのお馬鹿さんなのよ」

「フレッドって上の階の、あの男の子? 彼が兵隊さんだとは思わなかったわ。でも、たしかに馬鹿みたいな顔してるわね」

「あの人には憧れがあるのよ。馬鹿ではないわ。彼はね、自分の内側にいて、外を眺めていたい人なの。ガラスに鼻を押しつけて、こっちを見てる人って大体、馬鹿みたいに見えるでしょ。とにかく、彼は違うフレッドよ。私が言っているのは兄のフレッド」

「あなたは自分のみ、み、身内をお、お、お馬鹿さん呼ばわりするわけ?」

「実際そうなんだから、仕方ないじゃない」

「あのね、そういうことは言うものじゃないわ。兵隊のお兄さんはね、あなたや私や、私たちみんなのために戦っているのよ」

「なによそれ? 軍事公債の集会みたい」

「あなたに私の考え方をわかってほしいだけなの。私も冗談は好きよ。でもね、一皮めくれば、私はま、ま、真面目な人間なのよ。アメリカ人であることを誇りに思っているわ。それで、ホセのことで悩んでいるの」彼女は編み針を下に置いた。「あなたが見ても、彼って凄くハンサムだと思うでしょ?」

ホリーは「うーん」と曖昧な声を出すと、ペディキュアを塗っていたブラシで猫のひげをさっと撫でた。

「ブラジル人とけ、け、結婚するっていう考えを受け入れることができればいいんだけどね。そして私自身がブ、ブ、ブラジル人になればいいのよね。でもやっぱり、渡るには大変な渓谷だわ。六千マイルも離れているし、言葉もわからないし」

「ベルリッツに通いなさいよ」

「ベルリッツでポ、ポ、ポルトガル語なんて教えてるわけないじゃない。ポルトガル語を話してる人なんていないんだから。やっぱり無理だわ。ホセに政治のことを忘れてもらうしかないのよ。そして彼にアメリカ人になってもらうの。彼ったら、ブラジルのだ、だ、大統領になりたいなんて言ってるのよ。あきれちゃうわ」彼女はため息をつき、編み針を手に取った。「きっと私、彼に恋してるんだわ。あなた、私たちが一緒にいるところを見たでしょ。私が恋してると思った?」

「どうだったかしらね。彼って嚙みつく?」

マグは編み目をひとつ飛ばしてしまった。「嚙みつく?」

「あなたを、ベッドで」

「どうして? 彼はそんなことしないわ」それから彼女は、彼のあら探しをするように付け加えた。「でも彼ったら、笑うのよ」

「いいわね。健全だわ。ユーモアのわかる男って私も好きよ。男って大体、ハーハーあえいでるだけでしょ」

マグはホリーの発言に引っかかるところがあったのだが、言うのはやめて、それを自分に向けられた褒め言葉として受け入れた。「そうね、私もそう思うわ」

「わかったわ。彼は嚙まない。笑うのね。他にはあるかしら?」

マグは飛ばした編み目を数えると、もう一度やり直した。表編み、裏編み、裏編み…

「ねえ、ちょっと」

「聞こえてるわよ。べつに話したくないわけじゃなくて、なかなか思い出せないの。私、そういうことってあんまりか、か、考えないようにしてるのよ。あなたはじっくり考えるタイプみたいね。そういうことって夢みたいに、私の頭からすぐどこかへ消えちゃうわ。それがふ、ふ、普通だと思うけど」

「それが普通かもしれないわね。でも、私は普通よりも自然体でいたいのよ」ホリーは一旦口を止め、猫のひげを赤く塗ることに専念した。「ねえ、ベッドの上でのことを覚えられないようなら、明かりをつけたままでしてみたらどうかしら?」

「私のことわかってちょうだい、ホリー。私はとても、とても、すごく古い考え方の女なのよ」

「あら、馬鹿ね。あなたが好きな男の体なんだから、じっくり見たっていいじゃない。男って美しいのよ。世の中には美しい男がたくさんいるわ。ホセもそう。それを見たくないなんて、彼にしてみれば、冷めたマカロニを食べさせられるようなものね」

「も、も、もっと小さな声で喋ってよ」

「あなたが彼に恋してるはずないわ。さあ、これでさっきの質問の答えになったかしら?」

「なってないわ。私は冷めたマ、マ、マカロニじゃないわ。私は心の温かな女なの。それが私という人間の根底にあるのよ」

「わかったわ。あなたは温かい心を持っているんでしょうね。でも、もし私がベッドに入ろうとする男だったら、温かい心よりも湯たんぽに寄り添うわね。触って温かさを実感できるじゃない」

「ホセは不満なんて言わないわ」彼女は満足そうに言った。編み針が太陽の光を反射していた。「その上、私は彼に恋しているの。あなたは気づいたかしら? 私は3ヶ月もしないうちにアーガイルの靴下を10足も編んだのよ。これは2枚目のセーターなの」

彼女はセーターを広げて脇に置いた。「でも、これ何の意味があるのかしら? ブラジルでセーターなんて。ひ、ひ、日よけのヘルメットでも作ってあげた方がいいかしらね」

ホリーは反り返って、あくびをした。「ブラジルにも冬はあるはずよ」

「雨が降るのよね、それは私も知ってるわ。暑くて、雨が降って、ジ、ジ、ジャングルがあるのよ」

「暑くて、ジャングルがあって、そういうところ、私好きだわ」

「私よりあなたの方が合ってるわね」

「そうね」と、ホリーは眠そうな声で言ったが、実際は眠いわけではなかった。「あなたより私の方が合ってるわね」


月曜日、僕は午前中に届く郵便物を取りに階段を下りた。すると、ホリーの郵便受けの名刺に変更が加えられ、新たに名前が加わっていた。それによると、今、ミス・ゴライトリーとミス・ワイルドウッドは一緒に旅行中らしい。

もし僕の郵便受けに一通の手紙が入っていなければ、二人に対する興味は尽きなかっただろう。それは、ある小さな大学が出版している文芸誌からの手紙だった。僕はそこに短編小説を送っていたのだ。僕の小説を気に入ってくれたようで、文芸誌に掲載する予定だが、原稿料は支払えないことをご理解いただきたいと書いてある。掲載。ということは活字になるのだ。誇張でもなんでもなく、興奮でめまいがした。

誰かに伝えずにはいられなかった。僕は階段を一段飛ばしで駆け上がっていた。そして、ホリーの部屋のドアを勢いよく叩いた。

その朗報を自分の声でちゃんと伝えられる自信がなかったので、ホリーが眠そうに目を細めてドアを開けた時、僕は彼女に向かって、その手紙を突き出した。彼女がそれを読んで、僕に返すまでの時間はとても長く感じた。なんだかその手紙は60ページもあるかのようだった。

「お金をもらえないのなら、私だったら掲載させないわね」と、彼女はあくびをしながら言った。

おそらく僕の表情を見て、彼女は僕の意図を取り違えたことに気づいたのだろう。僕が聞きたいのは忠告ではなく、おめでとうの言葉なのだ。あくびをした彼女の口元が、ほほえみへと移り変わった。

「わかるわ。それって素晴らしいことよね。まあ、中に入って」と彼女は言った。「今コーヒーを入れるわね、飲みながらお祝いしましょう。いいえ。すぐ身支度するから、出掛けましょう。ランチをごちそうしてあげるわ」

彼女の寝室はリビングルームと変わらない印象だった。そこにも同様に野外キャンプを想起させる雰囲気があり、いくつかの木箱とスーツケースが置かれていて、すべてが荷造りされていた。まるで法の手が近くまで迫っていると感じた犯罪者が、いつでも逃げられるように準備しているみたいだ。

リビングルームには家具と言えるようなものはなかったけれど、寝室にはさすがにベッドが置かれていた。それもダブルベッドで、かなり派手なものだった。金色に近い木製のベッドで、房飾りのついたサテン生地のシーツがかかっている。

彼女は洗面所のドアを開けたまま、そこから寝室にいる僕に向かって話してきた。水の流れる音やブラシで髪をとかす音にかき消されて、何を言っているのかわかりにくかったが、要点はこんな感じだった。

気づいてると思うけど、マグ・ワイルドウッドがここに引っ越してきたのよ。これが凄く都合がいいの。だってね、ルームメイトと同居するとなったら、レズビアンの子が一番いいんだけど、次に最高なのは、お馬鹿な子よね。マグがまさにそうなのよ。家賃を押しつけることもできるし、それにクリーニング屋にも行ってくれるじゃない。

誰が見ても、ホリーが洗濯物で困っていることはわかっただろう。部屋には服が散乱していて、体育館の女子更衣室のようだ。

「-それにね、彼女は売れっ子モデルなのよ。わからないものよね!でも良かったわ」と言って、彼女は太もものガーターの位置を直しながら、片足を引きずるようにして洗面所から出てきた。「彼女は一日のほとんどを仕事で出掛けてるから、いらいらしなくて済むし、それにほら、男を取り合ったりして、もめることもないでしょ。彼女は婚約してるのよ。相手はいい男よ。ただ、ちょっと身長差が気になるけどね。彼女の方が30センチくらい高いのよ。あら、どこにいったのかしら?-」彼女は膝をついて、ベッドの下を探し回った。

やっと探し物が見つかると、それはトカゲ革の靴だったのだが、次に彼女はブラウスとベルトを探さなくてはならなかった。こんなに散らかった衣類から、どうしてこんなに見事な着こなしになるのだろうか、それは熟考に値する問題だった。身支度が整った彼女は平然としていて隙がなく、まるでクレオパトラの世話係に着付けをされたかのようだった。

彼女は「ねえ」と言って、僕の顎の下に彼女の手のひらを当てた。「あなたの小説が掲載されることになって私も嬉しいわ。本当に嬉しいのよ」


あれは1943年10月の月曜日だった。その日は鳥が空を悠々と飛んでいるような美しい日で、僕とホリーはまずジョー・ベルのバーに行って、カクテルの〈マンハッタン〉を飲んだ。

幸運にも僕の小説が文芸誌に掲載されることになったと伝えると、彼は店のおごりだと言って、シャンパン・カクテルを差し出してくれた。それから、僕たちは5番街の方へぶらぶらと歩いていって、パレードに出くわした。星条旗が風にたなびき、軍の音楽隊が演奏しながら勇ましく行進していたが、それらは戦争とは無縁のものに思え、むしろ僕を個人的に祝福してくれているファンファーレに聞こえた。

僕らは公園のカフェテリアでランチを食べて、そのあと、(ホリーが檻の中の動物は見ていられないと言ったので、)動物園を避けて、くすくすと笑い合ったり、走ったり、一緒に歌ったりしながら、古い木造のボート小屋に向かって小道を進んだ。そのボート小屋は今はもうないのだけれど。

木の葉が池の水面に浮かび、岸辺では公園の管理人がたき火をしていた。そこから煙がインディアンの〈のろし〉のように上がり、空気が揺れているように見える。その煙以外には雲一つ浮いていない。

4月が僕にとって大きな意味を持つことは今までに一度もなかった。秋こそが僕にとっての始まりの季節で、今、まさに春が来たようだった。そんな風に感じながら、ボート小屋のポーチの手すりの上に、ホリーと並んで座っていた。

僕は将来のことに思いをはせながらも、過去の話をした。ホリーが僕の子供時代の話を聞きたがったからだ。彼女も子供時代の話をしてくれたが、それはとらえどころのない、人の名前も地名も出てこない、印象派の絵画のような話だった。その話から受ける印象は予想とはかけ離れたものだった。というのも、彼女は夏に泳ぎに行った話や、クリスマス・ツリーの話や、綺麗な従姉妹たちとのパーティーの話といった、ほとんど色めきたつような話をしたからだ。要するに、彼女は自分が過ごしたことのない過去を語っていたのだ。そこから子供が逃げ出す必要などない過去を。

でも、14歳の時からずっと一人で生きてきたというのは本当なんだよね?と僕は訊ねた。

彼女は鼻をこすった。「それは本当よ。今話したことは本当じゃないわ。でも、それはね、ダーリン、あなたが自分の子供時代をあんなに悲劇みたいに話すからよ。私は惨めさで張り合う気なんてないわ」

彼女は手すりから飛び降りた。「そうだわ、それで思い出したわ。フレッドにピーナッツ・バターを送らなくちゃ」

その午後の残りを、僕たちは西へ東へ食料品店を巡って過ごした。戦時中で品不足だったため、店主たちは売るのを渋っていたが、なんとかなだめすかして、日が暮れる前に缶入りのピーナッツ・バターを6個かき集めることができた。最後の1個を手に入れたのは3番街のデリカテッセンだった。

ちょうどその近くに、あの宮殿の形を模した鳥かごがショーウィンドーに飾ってある骨董品店があったので、それを彼女に見せようと思い、その店に立ち寄った。彼女はその不思議な趣を愛でるように眺めていた。「でもやっぱり、檻だわ」

ウールワースの前を通りかかった時、彼女は僕の腕をぎゅっとつかんだ。「何か盗もうよ」彼女はそう言うと、僕の手を引いて店の中へと入っていく。

店内に入ると、すぐに周りの目が気になり出した。すでに僕たちは怪しまれて、目をつけられているかのようだった。

「ほら、びくびくしないで」彼女は紙のカボチャやハロウィンのマスクが山積みになっているカウンターを物色した。

女性店員は、ハロウィンのマスクを試しにかぶっている修道女たちにかかりきりだった。ホリーはマスクを一つ手に取り、自分でかぶると、別のマスクを取って、僕の顔にかぶせた。それから僕の手を取って歩き出し、そのまま僕たちは店を出た。

こんなにも簡単なことだったのだ。外に出ると、僕らは数ブロックも走った。走り続けたのは、よりドラマチックにするためだと思う。でも、それだけじゃない。僕は初めて知ったのだ。盗みが成功すると高揚感に包まれるってことを。

よく万引きするのかい?と彼女に聞いてみた。

「昔はよくやっていたわ」と彼女は言った。「というか、何か物が欲しかったら、そうするしかなかったのよ。でも、今でもたまにやるわ。なんていうか、腕が鈍らないようにね」

アパートに着くまでずっと僕たちはそのままマスクをかぶっていた。

ホリーと一緒にあちこち歩き回って、いろんなところに行ったという思い出がある。確かに僕らは暇を見ては何度も繰り返し会っていた。でも、おおよそ、その記憶は正しいとは言えない。なぜなら僕はその月の終わり頃に仕事を見つけて働き始めたからだ。それ以上は言わなくてもわかるだろう? 多くを語らない方が良いこともある。言えるのは、生活費が必要だったということと、9時から5時までの仕事だったということくらいだ。おかげで、ホリーと僕の生活時間は大きくずれてしまった。彼女がシンシン刑務所に面会に行く木曜日でない限り、あるいは、彼女はたまに乗馬をしていたので、公園で乗馬をする日でない限り、僕が帰宅する時にホリーが起きていることはめったになかった。

時々僕は彼女の部屋に寄って、彼女の目覚めのコーヒーを一緒に飲んだ。その間に彼女は夜の外出のために身支度をした。彼女はいつでもどこかに出掛けようとしていた。常にラスティー・トローラーが同伴するというわけではなかったが、大体は彼と一緒だったし、マグ・ワイルドウッドとハンサムなブラジル人が二人に加わることもよくあった。彼の名前はホセ・イバラ・イェーガーといって、彼の母親はドイツ人だった。

四重奏を奏でるには、その四人組は調和がとれているとは言えなかった。それは主にイバラ・イェーガーの責任だろう。彼はジャズバンドでバイオリンを弾いているみたいに、一人だけ浮いた存在だったのだ。

彼は知的であり、身なりもきちんとしていて、自分の仕事にも真摯に取り組んでいるようだった。彼は言葉を濁していたが、どうやら政府関係の重要な仕事をしているらしく、週に2、3日は仕事でワシントンを訪れていた。そんなに忙しい身でありながら、彼は夜ごとにラ・ルーやエル・モロッコといったナイトクラブに出掛け、ワイルドウッドのお、お、お喋りに耳を傾け、ラスティーの赤ん坊のお尻みたいな顔をじっと見つめていたわけで、どうやったらそんなことが可能なのかと感心してしまう。

おそらく、外国で生活をする人の多くがそうなってしまうように、彼も人を選別して、その人にふさわしい額縁に入れるという、自国にいる時にはごく自然にやっていたことができなくなっているのだ。従って、すべてのアメリカ人がかなり似通った色の光を当てられて判断されることになり、そのような基準からすると、彼が選んだ仲間たちは、いかにも地域色豊かであり、アメリカ人的でもあり、友達として受け入れるに値する人物に見えたのだろう。大体はそれで説明がつく。説明のつかない部分は、ホリーの器量の良さが補ってくれる。


ある日の夕方のことだった。5番街方面に向かうバスを待っていると、道の反対側でタクシーが停まるのに気づいた。タクシーから一人の若い女の子が降りて、彼女が42丁目通りの公共図書館の階段を駆け上がっていくのが見えた。彼女が図書館の中に入ってから、やっと僕は彼女が誰であるかを認識した。気づくのが遅れたのは無理もない。なにしろホリーと図書館というのは、なかなか結びつかない組み合わせだったのだから。

僕は好奇心に駆られて、図書館の入口にある二頭のライオンの像の間を抜けた。君を見かけてあとをつけてきたと認めるべきか、それとも偶然を装うべきかと、頭の中で緊急会議を繰り広げていた。

結局、僕はどちらもやめて、一般閲覧室の彼女が座っている席からテーブルをいくつか隔てたところに身を隠した。彼女はサングラスをかけたまま、書棚から集めてきた本を机の上に砦のように積み上げていた。

ホリーは次々と本を変え、大急ぎでページをめくっていたが、時折、あるページで手を止め、眉間にしわを寄せて、そのページを見つめていた。まるで上下逆さまに印刷されたページを眺めているかのようだった。

彼女は紙の上に鉛筆をかざしていた。本の内容に興味を引かれているようには見えなかったのだが、それでも時々、まるで無理に面白いことを見つけ出したかのように、何かをがむしゃらに走り書きしていた。彼女のそんな姿を見ていたら、僕は学校で知り合いだったミルドレッド・グロスマンという勉強好きの女の子を思い出した。

ミルドレッドは湿った髪をして、テカテカ光ったメガネをかけ、汚れた指で蛙を解剖し、ストライキのピケを張っている人たちにコーヒーを運んでいた。また、彼女は単に星の質量を計算するためだけに、精彩を欠いた瞳で星空を見上げていた。

ミルドレッドとホリーでは天と地ほどの違いがあったのだが、僕の頭の中で二人はシャム双生児のように繋がっていた。二人を一体に縫い合わせる思考の糸はこのようなものだった。通常、性格というのは頻繁に形を変えるものだし、肉体も数年に一度は完全に分解され、改変される。望むと望まざるとにかかわらず、僕たちが変化するのは自然なことなのだ。それなのに、この二人は全く変わろうとしない。これこそがミルドレッド・グロスマンとホリー・ゴライトリーに共通している点だ。二人が決して変わろうとしないのは、あまりにも早い時期に性格が決められてしまったせいだろう。突然、大金が転がり込んできた人間と同様に、ある時点で内面のバランスが崩れ、一人は頭でっかちの現実主義者になり、もう一人は偏った夢想家になったのだ。将来、この二人がレストランで向き合っている姿を想像した。ミルドレッドは栄養学的な観点からメニューを見つめ、いつまでも悩んでいる。ホリーはそこに載っているすべての料理を食べたいと、いつまでも悩んでいる。二人はずっと変わらないだろう。二人とも、すぐ左手には崖があることなど気づいていないかのような確固とした足取りで、人生の道を通り抜け、そして人生から出て行くのだ。

そのようなことを深く考えていたら、僕は自分がどこにいるのかを忘れてしまった。はっと我に返ると、自分が図書館の薄暗がりの中にいて跳び上がりそうになる。そして、改めて驚きの念をもって図書館にいるホリーを見つめた。

時計の針が7時を回ると、ホリーは口紅を塗り直し、スカーフを巻き、イヤリングをつけ、図書館に適していると彼女が思う外見から、レストランで仲間と食事するのにふさわしいと彼女が考える外見へと、さっそうと変身した。

彼女が出て行ったあと、僕は彼女の座っていた席にさりげなく近づいた。彼女が読んでいた本がそこに残されていて、僕はそれがどんな本なのかを知りたかったのだ。『サンダーバードが空を舞う南部』、『ブラジルの影』、『ラテン・アメリカの政治的精神』などの本が置かれていた。


クリスマス・イブにホリーとマグはパーティーを開いた。早めに来てツリーの飾り付けを手伝ってちょうだい、と僕はホリーに頼まれた。あんなに大きなツリーをどうやって部屋に運び入れたのか、いまだに定かではないが、ツリーの先端は天井に当たって折れ曲がり、下の方の枝は両側の壁につくほど広がっていた。そういえば、ロックフェラー・プラザでクリスマスの時期に見る巨大な木に似ていなくもなかった。それに、それこそロックフェラーのような大富豪でなければ、その巨大な木に満足に飾り付けをするのは無理だった。というのも、玉飾りやぴかぴか光る糸飾りをいくらつけても、雪が溶けるようにすぐに木の枝に吸い込まれてしまうのだ。

ホリーはちょっとウールワースまで行って、風船をいくつか盗んでくるわね、と言って出て行った。そして、実際に持ち帰ってきた風船を飾り付けると、ツリーはまずまずの見栄えになった。僕たちは飾り付けの出来栄えに乾杯した。すると、ホリーが「寝室に来てちょうだい。あなたにプレゼントがあるのよ」と言った。

僕も彼女にプレゼントを持ってきていた。それは小さな物でポケットに入れていたのだが、ベッドの上に置かれ、赤いリボンを巻かれた美しい鳥かごを見た時、ポケットの中のプレゼントがいっそう小さく感じられた。

「ちょっとホリー! こんな大それたもの、もらえないよ!」

「そうね、大それたものよね。でも、あなたはこれを欲しがっていたわよね」

「お金のことだよ! たしか350ドルだったよね!」

彼女は肩をすくめた。「それくらいのお金なら、2、3回余計にお化粧室に行けばもらえるわ。でも約束してほしいのよ。絶対この中に生き物を入れないって約束してほしいの」

僕は彼女にキスしようとしたが、彼女は片手を前に出して押しとどめると、「それちょうだい」と言って、僕のポケットのふくらみを軽く叩いた。

「大したものじゃないから、がっかりさせちゃうかも」実際それは大したものではなく、ただの聖クリストファーのメダルだった。ただ、少なくともそれはティファニーで購入したものだった。

ホリーは物を大事にしまっておくような女の子ではないし、きっと今はもう、あんなメダルは失くしてしまっただろう。スーツケースに入れたままとか、どこかのホテルに泊まった時に引き出しの中に置き忘れたりして。

でも、その鳥かごは今もまだ僕の手元にある。僕はその鳥かごを持って、ニューオーリンズにも、ナンタケットにも行ったし、それを手に提げて、ヨーロッパ中を旅し、モロッコや西インド諸島にも行った。それでも、それをプレゼントしてくれたのはホリーだということを思い出すことはめったになかった。ある時点で、そのことを忘れようと心に決めたからだ。


僕らは一度、大きな仲たがいをした。僕らは激しく言い合いになったのだが、二人が起こした台風の渦の中でぐるぐる回っていたのは、その鳥かごであり、O.J.バーマンであり、僕の短編小説だった。僕はそれが掲載された大学の文芸誌を一部、彼女に手渡していた。

それは2月のことだった。ホリーはラスティーとマグとホセ・イバラ・イェーガーを引き連れて、避寒を兼ねた冬の旅行に出掛けた。僕たちが口論したのは、彼女がその旅行から帰ってきた直後だった。彼女の肌は褐色に焼けていて、髪の毛も日光を存分に浴びて、お化けみたいに白っぽく変色していた。彼女は旅を満喫してきたのだ。

「あのね、まず私たちは船に乗ってキー・ウェストに向かったのよ。そしたらラスティーが船員の人たちに腹を立てちゃって、逆だったかしら? とにかく、彼は残りの人生をずっと背骨固定器をつけて過ごすはめになったのよ。親友のマグも病院に運ばれちゃったわ。彼女は重度の日焼けよ。かなりひどかったわ。肌が水ぶくれになっちゃってね、シトロネラ油を体に塗りたくられて、凄い匂いだったわ。近くにいるだけで我慢できないくらい。それで二人を病院に残して、ホセと私だけでハバナに行ったのよ。ホセが言うには、ハバナよりリオの方が素晴らしい街らしいけど、私はもう、ハバナのためならすぐに財布を開くくらい、ハバナがお気に入りの街になったわ。私たちを案内してくれたガイドが魅力的な人だったのよ。彼は黒人でね、中国人の血もちょっと混じってるって言ってたわ。私は黒人も中国人もあんまり好きじゃないんだけど、混ざり合うとね、これがなかなか素敵な男だったわ。だからね、彼がテーブルの下で私のひざを触ってきたから、そのまま触らせてあげたのよ。正直言って、彼は全然退屈な人じゃなかったわ。でも、ある夜にね、彼がポルノ映画に連れて行ってくれたんだけど、それで、どうなったと思う? なんと彼がその映画に出演していたのよ。もちろん、キー・ウェストに戻ったら、マグは疑ってきたわ。私がホセと寝たはずだって。ラスティーも疑ってたけど、彼はそういうことは気にしないタイプなのよ。彼はただあれこれ聞きたいだけなの。とにかく、私がマグと心を通わせて話をするまでは、かなりピリピリした雰囲気だったわ」

僕らはリビングルームで話していたのだが、もうすぐ3月だというのに、まだ巨大なクリスマス・ツリーが部屋の大部分を占めていた。茶色くなった葉っぱからは何の香りもしなくなり、風船は年老いた乳牛の乳房のようにしぼんでいた。その部屋には家具らしきものが一つ加わっていた。それは軍隊用の簡易ベッドだった。ホリーは南国風の肌の色を保とうと、簡易ベッドの上に日焼け用の青白い光を放つライトをかざして、そこに寝そべっていた。

「それで君はマグを納得させたのかい?」

「私がホセと寝なかったってこと? 当然、彼女は納得したわ。私はレズビアンなのって言ったのよ。わかるでしょ、こんなことを打ち明けるのは本当に辛いんだけど、みたいな言い方でね」

「彼女がそんなこと信じるわけがない」

「彼女が信じてないわけないじゃない。なぜ彼女がこの簡易ベッドを買ってきたと思ってるの? こういうことは私に任せてちょうだい。相手に精神的なショックを与えることにかけては、私の右に出る者はいないわ。ねえ、お願い、ダーリン、背中にオイルを塗ってくれないかしら」

僕が彼女の背中にオイルを塗っている最中、彼女は言った。「O.J.バーマンが今この街にいるのよ。それでね、あなたの小説が載ってる雑誌を彼に渡したの。彼、凄く感心していたわ。あなたには援助するだけの価値があるって思ったかもしれないわね。でもね、あなたは方向性が間違ってるって言ってた。黒人と子供の話なんて、そんなの誰が興味持つのよ」

「まあ、たしかにバーマンさん向きではないね」

「あら、私も彼と同じ意見よ。私は二回もあの話を読んだわ。ちびっ子と黒ん坊。あとは、そよぐ木の葉とか自然描写ばっかり。そんなの何の意味もないわ」

彼女の背中にオイルを塗っていた僕の手が、なんだか短気を起こしそうだった。僕の手が彼女の肌を離れ、高くかかげられ、そこから彼女のお尻めがけて振り下ろされたがっていた。

「たとえば、どんな小説が」僕は落ち着いて言った。「意味のあるものなのかな? 君の意見を聞かせてくれないか?」

「『嵐が丘』ね」と、彼女はためらいなく言った。僕の手の彼女を叩きたいという衝動がコントロールを失いつつあった。

「でも、それは理不尽だよ。天才が書いた名作と比べられても」

「そうね、名作よね。私の自由奔放で素敵なキャシー。もう涙がずっと止まらないんですもの。私は『嵐が丘』を十回も見たわ」

僕は「ああ」と、あからさまにほっとして言った。「なるほどね」僕はみっともないほどにうわずった声を出していた。「映画のことか」

彼女の背中の筋肉が急にこわばるのを感じた。まるで日光を浴びて温かくなった石を触っているかのようだ。

「みんな誰かに優越感を持たずにはいられないのよね」と彼女は言った。「でも、そういう風に上からものを言うのなら、あなたが私よりも優れている証拠を示してほしいわね」

「べつに僕は君と自分を比べているわけじゃないし、バーマンと比べてるわけでもない。だから僕の方が優れているなんて思ってない。僕たちは望んでいるものが違うんだよ」

「あなたはお金を稼ぎたくないの?」

「今のところ、そこまでは考えてないよ」

「なんだかあなたの小説みたいね。結末もわからずに書いてるって感じ。あのね、教えておいてあげるわ。お金は稼いでおいた方がいいわよ。あなたの想像力を形にするにはお金がかかるのよ。あなたに鳥かごを買ってあげるような人はそんなにいないわよ」

「ごめん」

「私をぶてば、もっとそういう気持ちになるわ。さっきあなたはそうしたいと思ったわよね。手から伝わってきたのよ。そしてあなたは今もそうしたがっているわ」

たしかに僕はひどくそうしたい衝動に駆られていた。オイルの瓶の蓋を閉める手が震え、同時に僕の心も震えていた。

「いや、そんなことしないよ。そうしても後悔はしないと思うけどね。僕のためにあんな高価な鳥かごを買って、君のお金を無駄に使わせてしまったことだけは悪かったと思ってる。ラスティー・トローラーにお金をねだるのも大変だね」

彼女は簡易ベッドの上で身を起こした。日焼け用の青白いライトに照らされて、彼女の顔も、裸の胸も、冷たそうに見えた。

「ここからドアまで4秒くらいかかるはずだけど、2秒でこの部屋から出て行ってちょうだい」

僕はホリーの部屋を出ると階段を駆け上がり、自分の部屋から鳥かごを持ってきて、それを彼女の部屋の前に置いた。これで終わりだ。


これで終わっただろうと翌朝までは思っていた。翌朝、仕事に出掛けようと外に出ると、その鳥かごが歩道のゴミ缶の上に置かれ、ゴミ収集車を待っていた。僕はおずおずとそれを拾い上げると、再び自分の部屋に運び入れた。その行為はなんだか負けを認めているようでもあったが、ホリー・ゴライトリーを僕の人生から完全に追い出してしまおうという決心に揺るぎはなかった。

彼女は「卑しい自己顕示家」であり、「時間の浪費者」であり、「全くの偽者」だと思うことに決めたのだ。二度と話なんかしたくない。

そして僕は実際に、それほど長い間というわけではないが、彼女と話をしなかった。階段で鉢合わせした時には足元に視線を落としてすれ違った。彼女がジョー・ベルの店に入ってくれば、僕は入れ違いに店を出た。

ある時、一階に住んでいるソプラノ歌手であり、ローラースケートをこよなく愛するサフィア・スパネッラ婦人が、ミス・ゴライトリーをアパートから立ち退かせようと、住人たちの署名を求めて、嘆願書を回した。スパネッラ婦人が言うには、彼女は「道徳的に好ましくない」上に、「一晩中パーティーを開き、近隣住民の安全と安眠をおびやかしている」ということだった。僕は署名するのは断ったが、内心ではスパネッラ婦人が不満を言うのも無理はないと思っていた。

しかし、署名は思うように集まらず、彼女の計画は頓挫した。そして、4月が5月に近づくにつれて、開け放たれた窓から、夜になっても温かな春の空気が入り込むようになり、パーティーは騒々しく活気づいていった。大音量のレコードプレーヤーの音や、マティーニに酔った人の笑い声が、2階の部屋から漏れ聞こえてきた。


ホリーを訪ねてくる人々の中にうさんくさい連中を見かけることは珍しくもなく、逆によくあることだったのだが、春も終わりに近づいたある日、アパートの玄関を通ろうとしたら、かなりあやしい男がホリーの郵便受けを吟味するように見つめていた。

50代前半と思しき男で、外気にさらされてきたような、こわ張った顔をして、生気を失った灰色の目をしていた。汗が染みついた灰色の帽子をかぶり、安っぽい夏用のスーツを着ていた。その薄い青色をしたスーツは、その男のひょろ長い体にはだぶだぶで、だらしなく垂れ下がっていた。靴は茶色で真新しかった。

ホリーの部屋のベルを鳴らすつもりはないようだった。ゆっくりと、まるで点字でも読むかのように、彼女の名刺の浮き彫りになった文字を指でなぞり続けていた。

その日の夕方、夕食を取りに外出すると、僕はまたその男を見かけた。彼は道の向こう側から木に寄りかかって、ホリーの部屋の窓をじっと見上げていた。不吉な憶測が僕の頭をよぎった。あの男は探偵なのだろうか? あるいは、シンシン刑務所にいる彼女の友人、サリー・トマトと何か関係のある暗黒街の手先だろうか? そんなことを考えていると、僕の中で再びホリーを愛おしく思う気持ちが大きくなっていった。

僕たちのいがみ合いは一旦中断して、見張られているから気をつけるように、と彼女に忠告してあげた方がいいと思った。

僕はマディソン・アベニューの79丁目にあるハンバーグ・ヘブンに行こうと思い、東へ向かって歩き始めたのだが、その時、男の注意が僕に向けられるのを感じた。ほどなくして、僕は後ろを振り返ることもなく、彼にあとをつけられていることに気づいた。なぜなら彼はずっと口笛を吹いていたからだ。それもありきたりの曲ではなく、ホリーが時々ギターを弾きながら歌っていた、あの悲しげな大草原のメロディーだった。「眠りたくない、死になくもない、ただ大空の大草原を旅していたい」

その口笛は、僕がパーク・アベニューを渡り、マディソン・アベニューを歩いている時もずっと聞こえていた。途中で、信号が変わるのを待っている間、視界の片隅でその男の様子を窺うと、彼は身を屈めて、みすぼらしいポメラニアンを撫でていた。

「いい犬を連れていますねえ」と、彼は犬の飼い主に言った。彼の声はしゃがれていて、田舎なまりの間延びした話し方だった。

ハンバーグ・ヘブンは空いていた。にもかかわらず、その男は長いカウンター席の僕の真横に座った。彼からタバコと汗の匂いがした。

彼はコーヒーを注文したが、コーヒーが運ばれてきても手をつけずに、つまようじを嚙みながら、僕たち二人の姿を映している壁鏡を通して、僕をじっと見ていた。

「あの」と、僕は鏡に映った彼に向かって話しかけた。「何かご用ですか?」

それでも彼は動じる素振りを見せなかった。むしろ、そう聞かれてほっとしたようだった。「実は君に」と彼は言った。「頼みがあるんだ」

彼は財布を取り出した。それは彼のがさがさの手のように、ぼろぼろにすり切れていて、今にもばらばらになりそうな札入れだった。

そして、財布と同様にしわくちゃで、ひびが入ったピンぼけの写真を彼は僕に手渡してきた。その写真には7人の人物が写っていた。飾り気のない木造家屋の、床板が歪んでいるような縁側に寄り添うように7人が立っている。彼以外はみんな子供だった。彼はぽっちゃりした金髪の少女の腰に手を回している。その少女は目に手をかざして日差しを遮っている。

「これが私だよ」と言って、彼は自分の姿を指差した。「これが彼女だ…」彼はそのぽっちゃりした女の子を指で叩いた。

「そしてここに写っているのが」と彼は言って、亜麻色の髪をしたひょろっと背の高い少年を指し示した。「あの子の兄のフレッドだ」

僕はもう一度、「あの子」を見た。そしてよく見ると、たしかに、目を細めている、頬がぽちゃっと丸いその子には、ホリーの芽生えの兆しがあった。

同時に、その男が誰なのか見当がついた。「あなたはホリーのお父さんですね」

彼は驚いたように目をしばたたき、眉をひそめた。「彼女の名前はホリーじゃない。彼女はルラメー・バーンズっていうんだ。前はな」と言って、彼は口の中でつまようじの位置を変えた。「私と結婚するまではってことだ。私は彼女の夫で、ドク・ゴライトリーだ。馬の医者、獣医をしている。農業も少しやっている。テキサスのチューリップ畑の近くでな。おい、君、何がおかしいんだ?」

本気で笑ったわけではなく、神経がひきつるように敏感に反応してしまったのだ。僕は水を一口飲んだのだが、むせてしまい、彼が背中を叩いてくれた。

「これは笑いごとじゃないんだよ、君。私はすっかり疲れてしまった。この5年間ずっと妻を探していたからね。フレッドから手紙をもらって、彼女の居場所がわかると、すぐに長距離バスのチケットを買ったよ。ルラメーは夫の私と子供たちの待つ家に戻るべきなんだ」

「子供たち?」

「この子たちは彼女の子供だ」と、彼はほとんど叫ぶみたいに言った。この子たちというのは、写真の残りの4人の幼い顔、つまり、二人の裸足の少女と、二人のつなぎの服を着た少年のことを言っているのだ。

なるほど、やはり、この男は気が狂っているのだ。「でも、ホリーがこの子たちの母親なわけないじゃないですか。みんな彼女より年上だし、体も大きいし」

「いいかい、君」と、彼は諭すような声で言った。「この子たちが彼女の腹から生まれたと言っているんじゃない。この子たちを産んだ、かけがえのない母親、かけがえのない女性は、1936年の7月4日、独立記念日にこの世を去った。イエスよ、彼女の魂に安らぎを与え給え。あれは日照り続きの年だった。私がルラメーと結婚したのは、1938年の12月で、彼女は14歳になろうとしていた。普通の人間だったら、14歳では、まだ分別もつかないだろうが、ルラメーは並外れた女だった。彼女は自分がしようとしていることをちゃんと理解した上で、私の妻に、そして私の子供たちの母親になると約束したんだ。あの子があんな風に出て行ってしまって、私たちはすっかり悲しみに暮れたよ」

彼は冷たくなったコーヒーを一口すすると、探るような真剣な目つきで僕を見つめてきた。「それで、君、私をまだ疑っているのか? それとも私の言っていることを信じるか?」

僕は信じた。あまりに突拍子もない話だったので、かえって真実味があったし、それに、O.J.バーマンの話にも合致していた。バーマンはホリーとカリフォルニアで初めて会った時のことを話し、「彼女が山岳地帯出身だろうが、オクラホマ出身だろうが、どこ出身だろうと、知るよしもない」と言っていた。彼女がテキサスのチューリップ畑から来た幼な妻だとわからなかったとしても、バーマンを責めることはできない。

「あの子があんな風に出て行ってしまって、私たちはすっかり悲しみに暮れたよ」と、その獣医はもう一度言った。「あの子が出て行く理由なんてどこにもなかったんだ。家事はすべて娘たちがやっていた。ルラメーは髪を洗ったり、鏡の前でおめかししたりして、ただのんびりしていればよかったんだ。うちには牛もいるし、菜園もあるし、鶏や豚もいるからな。あの子はいい意味で太っていったよ。彼女の兄も大男になるまで成長した。二人がうちにやって来た時とは見違えるほどになったんだ。二人を家の中に入れたのは長女のネリーだった。ネリーがある朝、私のところにやって来て、『パパ、野生児みたいな子供を二人、台所に閉じ込めたわ。家の外で牛乳と七面鳥の卵を盗んでいるところを私が捕まえたのよ』と言った。それがルラメーとフレッドだった。まあ、君みたいなのは、あんなに哀れな姿の人間を見たことはないだろうな。肋骨が全部浮き出ていて、足は弱々しくて、ろくに立ってもいられなかった。歯はぐらぐらで、トウモロコシのおかゆすら嚙めない状態だった。こういうことらしい。二人の母親が結核で死んで、父親も同じ病気で死んだ。それで、子供たちが大勢いたんだが、みんな散り散りになって、それぞれ意地の悪い連中に引き取られた。ルラメーと兄の二人は、チューリップ畑の百マイルほど東に住んでいる、けちで無責任な家族に引き取られ、そこで暮らしていた。彼女があの家から逃げ出すには、それだけの理由があったんだ。ただ、我が家から逃げ出す理由は全くなかった。あの子の家だったんだからな」

彼はカウンターに両肘をつき、閉じた瞼を指先でおさえながら、ため息をついた。

「彼女はふくよかに肉がつき、本当に綺麗な女になった。元気も出てきた。鳥のカケスのようによく喋ったよ。どんな話題でも、あの子は何か賢いことを言った。ラジオで耳にする意見よりも気が利いていた。気づくと彼女を好きになっていて、私は彼女にあげる花を摘んでいた。彼女のためにカラスを一羽飼い慣らして、彼女の名前を言えるように教え込んだ。彼女にギターの弾き方も教えた。ただ彼女を見ているだけで、目から涙がじわっと溢れてきたよ。彼女にプロポーズした夜、私は赤ん坊のように泣いた。そしたら彼女は、『どうして泣くのよ、ドク? もちろん結婚するわ。私はまだ一度も結婚したことないから』と言ったんだ。私は思わず笑ってしまったよ。それから彼女をぎゅっと抱きしめた。『まだ一度も結婚したことないから』だとよ」彼はクスクスと笑いながら、少しの間、つまようじを嚙んでいた。

「あの子が幸せじゃなかったなんて言わせないよ!」と、彼は挑んでくるように言った。「家族みんなで彼女を可愛がったんだ。彼女は指一本上げる必要はなかった。指を動かすのはパイを食べる時と、髪をとかす時、あとは郵便で雑誌を取り寄せる時くらいだった。我が家に届いた雑誌の総額は100ドルは下らないだろうな。私が思うには、ああいう雑誌が原因で彼女は出て行ったんだ。見せびらかすような写真を見て、夢みたいな話を読んで、そのうち彼女はふらふらと出歩くようになった。毎日少しずつ遠くまで出掛けていったよ。1マイル歩いて、帰ってきた。次の日は2マイル歩いて、帰ってきた。ある日、彼女はそのまま歩き続けて、帰ってこなかった」彼は再び両手で目を覆った。彼の息づかいが荒々しく不規則になった。

「彼女のために飼っていたカラスは狂乱したように飛んでいったよ。夏の間中、そのカラスの声が聞こえてきた。庭でも、菜園でも、森の中でも。夏の間ずっと、あのいまいましい鳥は呼び続けていた。ルラメー、ルラメーってな」

彼は背中を丸めたまま、じっとしていた。まるで遠い昔の夏の音に耳を澄ましているようだった。

僕は二人分の伝票をレジに持っていった。僕がお金を払っていると、彼もレジまでやって来た。僕たちは一緒に店を出て、パーク・アベニューに向かって並んで歩いた。風が強く、肌寒い夜だった。通りに並ぶ店のしゃれた天幕が風にはためいていた。

しばらく沈黙が続いたが、やがて僕は言った。「でも、彼女のお兄さんはどうしたんですか? 彼は家を出なかったんですか?」

「ああ、出なかったよ」と彼は言って、咳払いをした。「フレッドは軍隊に連れて行かれるまで、ずっと私たちと一緒にいた。いい子だよ。馬の世話が上手なんだ。ルラメーがどんな考えにとりつかれてしまったのか、フレッドにはわからなかった。どうして彼女が兄と夫と子供たちを置いて出て行ったのか、彼は不思議がっていたよ。軍隊に入ってからは、彼女からフレッドのところに手紙が来るようになったみたいだけどな。先日、彼は手紙で彼女の住所を私に教えてくれたんだ。それで彼女を連れ戻しに来た。彼は妹がしたことを申し訳なく思っているんだよ。彼女だって家に帰りたがっているはずだ」

彼は僕に同意を求めているようだった。僕は彼に、「ホリーは、というか、ルラメーは昔とは多少変わったと思いますよ」と言った。

「聞いてくれ、君」と彼は言った。僕たちはアパートの玄関に近づいていた。「頼みがあると言っただろ。私はあの子を驚かせたくないし、怖がらせたくもないんだ。だから遠くから様子を窺っていた。私を助けると思って、私がここにいることを彼女に知らせてほしい」

ミセス・ゴライトリーと彼女の夫を引き合わせることを思うと、なんだか愉快な気分になった。そして、明かりのついた彼女の部屋の窓を見上げながら、彼女の友人たちもいるといいなと思った。このテキサスからやって来た男と、マグやラスティーやホセが握手しているところを想像したら、さらに愉快な気分になった。

しかし、ドク・ゴライトリーの誇らしげで真剣な目つきと、汗の染みついた帽子を見たら、そんなことを期待した自分が恥ずかしくなった。彼は僕のあとについてアパートの中に入った。そして彼は階段の下で待っていることにして、身なりを整えた。

「服装はこれで大丈夫か?」と、彼はスーツの袖を払ったり、ネクタイを締め直したりしながら小声で言った。

ホリーは一人だった。彼女はすぐにドアを開けた。実際、彼女は出掛けるところだったのだ。光沢のある白いダンス用のパンプスを履き、大量に香水をつけている。これから彼女は宴(うたげ)に繰り出すのだろう。

「あら、お馬鹿さんじゃない」と彼女は言って、おどけたようにハンドバッグで僕を軽く叩いた。

「私、今急いでいるのよ。仲直りしている時間はないわ。明日、仲直りの印に一服しましょう。いいわね?」

「いいとも、ルラメー。君が明日もまだこの辺りにいるのならね」

彼女はサングラスを取ると、目を細めてじっと僕を見つめた。彼女の目は、まるで粉々に割れたプリズムのようだった。青や灰色や緑の点が、砕け散った光の破片のように目の中に散らばっていた。

「あの子があなたにその名前を教えたのね」と、彼女は小さな、震えるような声で言った。

「ああ、お願い。あの子はどこなの?」彼女は僕の脇をすり抜けて廊下に出た。

「フレッド!」彼女は階段の下に向かって叫んだ。「フレッド! どこにいるの? ダーリン」

ドク・ゴライトリーが階段を上がってくる足音が聞こえた。手すりの上に彼の頭が現れると、ホリーは後ずさりした。彼を怖がっているというよりは、がっかりして自分の殻の中へと引っ込んでいくように見えた。

それから彼は彼女の前に立ち、どうしていいかわからない様子で照れくさそうにしていた。

「おお、ルラメー」と彼は口を開いたが、そこでためらった。彼を見つめるホリーの目がうつろで、彼が誰なのかわからないみたいだったからだ。

「なんてことだ、ハニー」と彼は言った。「まともに食べさせてもらっていないのか? こんなにやせてしまって。お前に初めて会った時みたいじゃないか。目の周りにこんなにもくまができてしまって」

ホリーは手を差し出し、彼の顔に触れた。彼の顎が、そこに生えた無精ひげが、現実にそこにあることを指で確かめていた。

「ハロー、ドク」と彼女は優しく言って、彼の頬にキスをした。

「ハロー、ドク」と彼女は嬉しそうに繰り返した。彼は肋骨が折れるのではないかと思うほど、きつく彼女を抱きしめると、そのまま宙に持ち上げた。

彼はほっとしたような笑い声を上げながら、全身を揺すっていた。「ああ、ルラメー。天にも昇るような気持ちだ」

僕は上の階の自分の部屋に戻ろうと、二人の脇をどうにかすり抜けたのだが、二人とも僕のことなど眼中になかった。サフィア・スパネッラ婦人がドアを開けて、「うるさいのよ! この恥さらし。売春ならどこかよそでやってちょうだい」と叫んだのだが、二人はそれにも気づいていないようだった。


「彼と離婚? もちろん離婚なんてしてないわ。私はまだ14歳だったのよ、まったくもう、そんな結婚、法的に無効に決まってるじゃない」ホリーは空になったマティーニのグラスを指で軽く叩いた。「同じの二つおかわりよ、ダーリン、ベルさん」

僕たちはジョー・ベルのバーで座っていたのだが、彼はしぶしぶといった様子で、その注文を受けた。「お前たち、こんなに早い時間からそんなに飲んで」と、彼はタムズ胃腸薬を嚙みながら、苦言を呈した。

カウンターの後ろにかけてあるマホガニー材でできた黒い時計によると、まだお昼前だったが、彼は僕たちにすでに三杯ずつお酒を差し出していた。

「でも今日は日曜日よ、ベルさん。日曜日は時計の針もゆっくり進むのよ。それにね、私は昨日からまだベッドに入っていないの」と彼女は彼に言ってから、「寝るわけにはいかなかったのよ」と、僕にそっと打ち明けた。

ホリーは顔を赤くして、後ろめたいことでもしたかのように視線をそらした。彼女と知り合ってから初めて、ホリーは自分を正当化する必要性を感じているようだった。

「あのね、寝てなんかいられなかったの。ドクは私のことを本当に愛しているのよ、知ってるでしょ。そして私も彼のことが大好きよ。あなたの目には彼は年を取っていて、みすぼらしく見えたかもしれないわね。でも、あなたは知らないでしょうけど、彼は凄く優しいのよ。鳥とか子供たちとか、そういうかよわいものに対して思いやりがあるの。誰からであっても思いやりを受けたら、その恩を忘れちゃいけないわ。お祈りする時には、私はいつもドクのことを思っているわ。ニヤニヤするのはやめてちょうだい!」彼女はタバコをもみ消しながら強い口調で言った。「私だってお祈りくらいするわよ」

「ニヤニヤなんかしてないよ。微笑んでいるんだ。君みたいなびっくりするような素晴らしい人に会ったのは初めてだから」

「自分でもそう思うわ」と彼女は言った。午前中の光の中で、青ざめ、かなり傷ついているように見えた彼女の顔が、明るさを取り戻した。彼女は乱れた髪をなでつけた。いろんな色が混じった髪がシャンプーのCMみたいにちらちら光った。

「きっと私、ひどい顔をしているわ。でも誰だってそうなるでしょ? 私たちはバスの停留所で朝までうろうろしていたんだから。バスが出発する最後の最後まで、ドクは私が彼と一緒に帰るものだと思っていたわ。私は繰り返し彼に言ったんだけどね。ドク、私はもう14歳ではないし、今はもうルラメーでもないのよって。でもね、気づいてぞっとしちゃったんだけど、(バス停で二人きりで立っている時に気づいたんだけどね、)私は今でもルラメーなのよ。私は今でも七面鳥の卵を盗んだり、イバラの茂みを駆け抜けたりしているの。今はそれを嫌な赤色の気分って呼んでいるだけなんだわ」

ジョー・ベルは僕たちの前に作りたてのマティーニをそっけなく差し出した。

「野生の生き物を好きになってはだめよ、ベルさん」と、ホリーは彼に忠告した。「それがドクの過ちだったのよ。彼はいつも野生の生き物を家に連れ帰ってきたわ。翼の傷ついたタカとかね。足が折れた大人のオオヤマネコを連れてきたこともあったわ。でも、野生動物に情を移してはだめなのよ。愛情を注げば注ぐほど、その野生動物は回復して強くなっていくわ。やがてすっかりたくましくなって、森に逃げるように戻っていくのよ。鳥だったら、木の枝にとまれるようになって、それからもっと高い木に上がれるようになって、いつしか空へ飛び立ってしまう。結局そうなってしまうのよ、ベルさん。もし野生の生き物に愛情を抱いてしまったらね。最後には空を見上げて途方に暮れることになるわ」

「彼女は酔ってるね」と、ジョー・ベルは僕に告げた。

「ほろ酔い程度よ」と、ホリーは酔っていることを認めた。「でもドクは私の言いたいことをわかってくれたわ。私は彼にとても丁寧に説明したの。そしたら彼はちゃんと理解してくれた。私たちは握手をして、お互いに抱き締め合って、彼は私の幸運を祈ってくれたわ」彼女は時計をちらっと見た。「彼は今頃、ブルーマウンテンズ辺りね」

「彼女は何の話をしているんだい?」と、ジョー・ベルは僕に訊ねた。

ホリーはマティーニを持ち上げると、「ドクの幸運も祈ってあげましょうよ」と言って、僕のグラスに彼女のグラスを合わせた。

「あなたの幸せを祈っているわ、本当よ、親愛なるドク。それにね、空の上で暮らすより、空を見上げている方がましなのよ。空なんて何もないし、漠然としすぎているわ。空の国では雷が鳴り響いてね、生き物はみんな消えてしまうの」


「トローラー、4度目の結婚。」僕がその見出しを目にしたのは、ブルックリン辺りで地下鉄に乗っている時だった。その大見出しが掲載された新聞は他の乗客が手にしていたもので、僕が目で追えた部分にはこう書かれていた。「ラザフォード・ラスティー・トローラーは大富豪の遊び人でナチの支持者だとして、しばしば批判の的になってきたが、昨日、グリニッジで挙式を行うために飛び立った。お相手は美しい-」それ以上は読みたくもなかった。ホリーはあいつと結婚してしまったのか。ああ、もう、このまま地下鉄に飛び込んで車輪の下敷きになってしまいたい。

実はその見出しを目にする前から、僕は地下鉄に飛び込みたい衝動に駆られていた。理由は色々あった。ホリーとはジョー・ベルのバーで一緒に酔っ払った日曜日以来、一度も会っていなかった。それからの数週間というもの、僕は嫌な赤色をした気分にさいなまれていたのだ。

まず初めに僕は仕事を首になった。それは当然の報いで、笑ってしまうような不始末をしでかした結果なのだが、あまりに込み入った話なので、詳細を書くことはやめにする。

さらに、徴兵委員会が僕に興味を示してくるのが不快だった。せっかく小さな町での軍事的統制を敷かれた生活から逃れてきたばかりだというのに、またしても規律づくめの生活に入るのかと思うと絶望的な気分になった。

いつ徴兵されるかわからない身でもあり、僕には特別な職歴もなかったから、新たに仕事を見つけることはできそうもなかった。

ブルックリン辺りを走る地下鉄の中で、僕はそんなことを考えていた。今では廃刊になっているが、『PM』紙を発行していた新聞社の面接を受けてきた帰りだった。そこの編集者が面接官だったのだが、手応えはまるでなかった。そういった状況に都会の夏の暑さも相まって、僕の精神は無気力状態に陥っていた。

だから、僕は地下鉄に飛び込んでしまおうと、かなり本気で思っていたのだ。その見出しを見たことで、飛び込みたいという願望はさらに強くなった。ホリーがあの〈まぬけな胎児〉と結婚してしまうのなら、いっそのこと、世の中にはびこる害悪が一気に押し寄せてきて、僕を踏みつけてしまえばいい。

そこで、当然の疑問が湧き上がった。こんなにも激しく気持ちを揺さぶられるのは、僕自身が少しでもホリーに恋をしていたからなのだろうか?

たしかに少しは彼女に恋をしていた。それは僕がかつて、僕の母親の世話をしていた黒人の家政婦に恋をしていたのと同じような気持ちである。あるいは、郵便配達の巡回に一緒に回らせてくれた郵便配達員に僕が抱いた恋心や、マッケンドリック家の家族全員に対して抱いていた気持ちと似たような感情である。そういう種類の恋心からも、胸の内に嫉妬心は湧き上がるものなのだ。

地下鉄が僕のアパートの最寄り駅に着くと、僕は新聞を買った。そして、あの文章を最後まで読み、ラスティーの結婚相手が「美しい人気モデルでアーカンソー州山間部出身のマーガレット・サッチャー・フィッツヒュー・ワイルドウッド」だと知った。マグだった!

僕はほっとして、なんだか気が抜けて足に力が入らなくなってしまい、駅からアパートまでタクシーに乗った。サフィア・スパネッラ婦人が廊下で僕を待ち構えていた。怒った目つきで、両手を固く握り合わせている。

「急いで」と彼女は言った。「警察を呼んできてちょうだい。あの女が誰かを殺そうとしているのよ! 誰かがあの女を殺そうとしているのよ!」

それらしい音が聞こえた。まるでホリーの部屋に放たれた数頭の虎が暴れているかのようだ。グラスが割れる音や、何かが裂ける音、物が落ちる音、それから家具がひっくり返される音がした。

しかし、騒然とした物音は聞こえるが、言い争う声は全く聞こえない。そのことが不自然さを醸し出していた。

「走って」スパネッラ婦人は僕の背中を押しながら、金切り声を上げた。「警察に殺人事件だと言って!」

僕は走ったのだが、向かった先は上の階のホリーの部屋だった。ドアをドンドンと叩いたことで変化が表れた。激しい物音が収まっていき、やがてぴたりとやんだのだ。

だが、中に入れてほしいと頼んでも返事がない。それで僕は体当たりしてドアを突き破ろうと試みたのだが、ただ肩に打撲傷を負っただけだった。

すると階段下から、スパネッラ婦人が誰かに警察を呼びに行くように命じている声が聞こえた。新たに誰かが来たらしい。

「うるさい」と、その誰かは彼女に言った。「そこをどけ」

それはホセ・イバラ・イェーガーだった。いつもの抜け目ないブラジル人の外交官とはほど遠い様子で、汗をかき、怯えているようにも見える。彼は僕にも脇に寄るように指図してきた。そして彼自身が持っていた鍵を使ってドアを開けた。

「こっちです、入ってください。ドクター・ゴールドマン」と、彼は後ろについてきていた男に手招きしながら言った。

誰にも入るなと言われなかったので、僕も二人のあとについて部屋に入ってみると、部屋の中はめちゃくちゃに破壊されていた。あのクリスマス・ツリーがついに取り壊されていた。文字通り、バラバラにされていた。枯れて茶色くなったいくつもの枝が床に散らばっている。床には引き裂かれた本や、割れた電球や、折られたレコードも散乱していた。

冷蔵庫の中までも空っぽにされ、中身が部屋中にばらまかれていた。生卵が壁をつたって垂れている。そして、そのような残骸の真ん中で、ホリーの名無しの猫が、床に水たまりのようにたまった牛乳を平然となめていた。

寝室に行ってみると、割れた香水の瓶から立ち込める匂いで、うっと息がつまった。床に落ちていたホリーのサングラスを踏みつけてしまったのだが、僕が踏む前からすでにレンズは割れていて、フレームは真っ二つに折れていたようだった。

おそらくメガネをかけていないからだと思うが、ベッドで体をこわばらせているホリーは何も見えていないかのようにホセを見つめていた。彼女の脈を取っている医者のことも見えていないようだった。その医者は、「ずいぶん疲れているようですね、お嬢さん。とても疲れているね。眠りたいでしょう? お眠りなさい」と優しく低い声で言った。

ホリーは自分の額を手でこすった。切れた指から流れる血が彼女の額についた。

「眠るわ」彼女はそう言うと、疲れ切ってすねる子供のようにすすり泣いた。「彼は私を眠らせてくれた唯一の人だったわ。寒い夜に抱きつかせてくれたの。メキシコで素敵な場所を見たわ。馬がいて。海のそばで」

「馬がいて、海のそばで」と、その医者は子守歌を歌うように言いながら、黒いケースから皮下注射器を取り出した。ホセは注射針を見て気分が悪くなったのか、顔を背けた。

「彼女の病はただの悲嘆ですか?」と彼は訊ねたのだが、彼の喋る英語は拙いので、意図せずして皮肉のこもった質問になった。「彼女はただ嘆き悲しんでいるだけですよね?」

「ほら、少しも痛くなかったでしょう?」と、その医者はしたり顔で、ホリーの腕に脱脂綿の切れ端を軽く当てながら訊ねた。

彼女は我に返ったかのように、しっかりとしたまなざしで、その医者を見つめた。

「全身が痛いの。私のメガネはどこ?」しかしメガネは必要なかった。彼女の目はそのまま自然と閉じていった。

「彼女はただ嘆き悲しんでいるだけですよね?」と、ホセはしつこく聞いた。

「すまないが」その医者は彼に対してかなり無愛想だった。「この患者さんと私の二人だけにしてもらえませんかね」

ホセはリビングルームに引っ込んだのだが、そこで、スパネッラ婦人がつま先立ちで聞き耳を立てている姿を見て、彼は箍(たが)が外れたようにかっとなった。

「私にさわらないで! 警察を呼びますよ」と、彼女が脅し文句を口にしても、彼はひるむことなくポルトガル語で彼女をののしって、ドアの外に追い出した。

彼は僕までも追い出そうと考えた。というか、彼の表情から僕を追い出そうとしているように感じたのだが、考え直したのか、彼は一杯飲みませんかと僕を誘ってきた。割れていないボトルを一つだけ見つけることができた。それはドライ・ベルモットのボトルだった。

「心配なんです」と、彼は心の内を話した。「これがスキャンダルになるのではと心配なんです。彼女はすべてを壊しました。狂ったように暴れました。私はスキャンダルだけは避けなければならないんです。私の仕事はスキャンダルに弱いんです。私の名前にも傷がついてしまいます」

これがスキャンダルになる理由は見当たらないと僕が言うと、彼は元気を取り戻したようだった。自分の所有物を破壊しても、おそらく、それは個人の自由だろう。

「これはただ嘆き悲しんだ結果なんです」と、彼はきっぱりと宣言した。「悲しい知らせが訪れて、まず最初に彼女は飲んでいたお酒のグラスを投げました。それからお酒のボトル、本、電灯を次々と投げました。それで私は怖くなって、急いで医者を連れてきたんです」

「でも、どうして?」と、僕は理由を知りたくて訊ねた。「どうしてラスティーのことで彼女がそんなに怒るんだい? もしも僕が彼女の立場だったら、ラスティーをお祝いしてあげるけどな」

「ラスティー?」

僕はまだ新聞を手に持っていたので、ホセにその見出しを見せた。

「ああ、そのことですか」と、彼は軽くあしらうように歯を見せて笑った。

「私たちはラスティーとマグの二人が結婚して本当に良かったと思っているんです。そのことを知って、私たちは笑ってしまいましたよ。二人は私たちが心を痛めていると思っているでしょうけど、私たちはずっと、あの二人が駆け落ちでもしてくれればいいのに、と思っていたんですよ。実を言うと、ちょうど私たちがそのことで笑っている時に、悲しい知らせが届いたんです」

彼の目は床の上に散らばった紙くずを探していた。それから彼は丸められた黄色い紙を拾い上げた。「これです」と彼は言った。

それはテキサスのチューリップ畑から届いた電報だった。「フレッドが海外で従軍中に戦死したとの知らせあり。君の夫である私も子供たちも、大切な家族を失ったことを悲しんでいる。詳しくは電報の後に手紙を送る。愛している。ドクより」


一度だけ例外はあったけれど、ホリーはもう二度と兄の話をしなくなった。さらに言えば、彼女は僕をフレッドと呼ぶこともやめてしまった。

6月、7月、温かい時期を通して、ホリーは春の訪れも、春が過ぎ去ったことにも気づかない冬眠中の動物のように、ずっと引きこもっていた。彼女の髪は黒い部分が増え、体重も増えていった。彼女は服装にもあまり気を配らなくなった。大きめのレインコートを羽織り、その下には何も身に着けずに、デリカテッセンまで食料品を買いに急ぎ足で通っていた。

ホセが彼女の部屋に引っ越してきて、郵便受けのマグ・ワイルドウッドの名前が彼に名前に変わった。とはいえ、ホリーは大体いつも一人だった。ホセは週に3日、ワシントンに滞在していたからだ。彼がいない間、彼女は誰も部屋に入れなかったし、めったに部屋から出なかった。毎週木曜日だけは、欠かさずシンシン刑務所のあるオシニングまで出掛けていた。

だからといって、彼女が人生に興味を失ったというわけではない。それどころか、彼女は以前にも増して満ち足りているようで、総じて以前より幸せそうだった。ホリーらしくないのだが、突然家事に没頭するようになり、その結果、ホリーらしくない買い物をすることになった。

パーク・バーネット・オークションで、彼女は〈猟犬に追い詰められた鹿〉の描かれた壁掛けを購入した。それから、ウィリアム・ランドルフ・ハーストが所有していたゴシック風の安楽椅子を二つ揃いで購入したのだが、安楽というわりには気分の滅入るような椅子だった。

彼女は『現代叢書』を全巻揃えて、クラシック・レコードを複数の棚がいっぱいになるほど買い集め、メトロポリタン美術館で数え切れないほどの複製美術品を買い漁った。(その中には、まねき猫の彫像も含まれていたのだが、ホリーの猫はそれを忌み嫌い、フーッとうなり声を上げると、結局すぐに壊してしまった。)そして、ウェアリング社製のミキサーと圧力鍋と料理本を何冊も買い揃えた。

彼女は毎日午後になると、狭い台所をせわしなく動き回り、食材をこぼしながら、主婦業に励んでいた。

「ホセがね、私の料理は〈コロニー〉で出されるものより美味しいって言ってくれたの。ほんとに、私にこんなに料理の才能があったなんて、誰も夢にも思わなかったでしょうね。ひと月前まではスクランブルエッグも作れなかったのよ」

彼女はそう言ったが、実際は今でもまだ作れなかった。ステーキや普通のサラダといった簡単な料理は彼女には向いていないようだった。

その代わりに、彼女がホセに作ってあげたものは、時々は僕にも作ってくれたものは、風変わりなスープ(ブランデー漬けの黒ガメのスープをアボカドをくりぬいた中に注いだもの)や、暴君ネロを思わせる斬新な料理(ザクロと柿の実を中に詰めたキジの丸焼き)や、あやしげな珍料理(チョコレートソースをかけたチキンとサフランライス)だった。「東インドの名物料理なのよ、あなた」と言っていた。

スイーツに関しては、戦時中で砂糖とクリームが不足していたために、彼女の料理の発想力は抑えられてしまったのだが、それでも一度、〈タバコ・タピオカ〉なるものをこしらえたことがある。ただ、詳細な説明はしない方がいいだろう。

彼女がポルトガル語を話せるようになろうと試みたことについても詳しくは語らないでおこう。彼女にとっても辛い経験だったと思うが、僕にとっても、それはうんざりするような経験だった。というのも、彼女の部屋を訪れると、いつでもレコードプレーヤーの上でリンガフォン(語学教材)のレコードが回っていて、ポルトガル語が延々と流れていたのだから。

彼女は何かと言うと、「私たちが結婚したら」とか、「私たちがリオに引っ越したら」と言っていたが、ホセはまだ彼女に結婚を申し込んではいなかったし、彼女もそれは認めた。

「でも、結局、彼は私が妊娠していることを知っているのよ。そうよ、私、妊娠してるのよ、ダーリン。だって、6週間も生理が来ないんですもの。なぜあなたがそんなに驚くのかわからないわ。私は驚かなかったわ。ほんの少しもよ。むしろ嬉しかったの。子供は少なくとも9人は欲しいわ。きっと何人かは黒っぽい子が生まれるわ。だって、ホセってちょっぴり黒みがかってるじゃない、ねえ、あなたもそう思うでしょ? それは私が望んでいることなの。明るい緑色の綺麗な目をした黒人の赤ん坊ほど美しいものはないわ。笑わないで聞いてほしいんだけど、私ね、彼のために、ホセのためにね、処女だったらよかったなって思うの。私がもの凄くたくさんの男と寝てきたって言う人もいるけど、それは違うのよ。そういうことを言うやつらを非難することもできないんだけどね。私自身がいつも、そういう派手なことばかり言ってきたから。本当よ。この前、夜中に数えてみたんだけど、今までに付き合った恋人は、たったの11人だったわ。13歳より前の話は人数に入れてないわよ。だってそんな付き合い、数に入らないでしょ。11人よ。それだけで、私は娼婦になるかしら? マグ・ワイルドウッドを見てごらんなさいよ。ハニー・タッカーやローズ・エレン・ウォードを見てみなさいよ。彼女たちは手のひらをパチンと叩くみたいに、男をとっかえひっかえしてるから、今ではパチパチって拍手喝采みたいにもの凄い人数になってるわ。もちろん、娼婦に対して文句はないのよ。ただね、これだけは言いたいの。口では正直そうなことを言う娼婦もいるけど、彼女たちはみんな心の中では正直じゃないのよ。つまりね、男と寝て、お金をもらっておいて、その男を、少なくとも好きになろうともしないなんて、おかしいと思うの。私はそういう気持ちなしで男と寝たことはないわ。ベニー・シャクレットも、他の嫌なやつらもみんな好きになろうとしてきたのよ。一種の自己催眠をかけるのよ。あのほんとに嫌な連中にもそれなりに魅力があるんだって思い込むの。実際のところ、ドクを除いては、あなたがドクを数に入れたいのならドク以外では、ホセが私にとって最初の偽りのないロマンスの相手なのよ。まあ、彼が私の理想の相手だっていうわけでもないんだけどね。彼は小さな嘘をつくし、周りの人がどう思うかを気にするし、1日に50回もシャワーを浴びるし、男の人はいくらか匂っていた方がいいと思うけどね。彼は潔癖すぎるし、私の理想の男としては、びくびくしすぎているわ。彼って、いつも背中を向けて服を脱ぐのよ。食事の時はくちゃくちゃうるさいし、それから、彼が走っているところを見るのは好きじゃないわ。走ってる時の彼ってね、可笑しな顔してるのよ。もしも生きている男の中から誰でも好きに選んでいいなら、指をパチンと鳴らして、こっちへいらっしゃいって呼び寄せてもいいのなら、私はホセは選ばないわね。インドのネルー首相とか、私の理想に近いわね。ウェンデル・ウィルキーも悪くないわね。女優のガルボとなら、私はいつでも一緒になるわ。変かしら? 相手が男だろうと女だろうと、自由に結婚できるべきよ。ねえ、聞いて、もしあなたが競走馬のマンノウォーと結婚したいと言い出しても、私はあなたの気持ちを尊重するわ。真面目に言っているのよ。愛は、どんな愛でも許されるべきなのよ。私は心からそう思うわ。今やっと、愛がどんなものなのか、はっきりとわかったの。だって私、ほんとにホセを愛しているのよ。もし彼にタバコをやめてほしいと言われたら、やめてもいいわ。彼は凄く優しいのよ、あの嫌な赤色の気分を笑って吹き飛ばしてくれるの。といっても、前ほどはそういう気分になることもなくなったんだけどね。たまによ、今でもたまになるんだけど、それでも、前みたいに鎮静剤のセコナールを飲んだり、自分の体を引きずるようにティファニーに行ったりするほど、ひどいことにはならないわ。彼のスーツをクリーニングに出したり、キノコ料理を作ったりすれば、気が晴れて、それだけで満ち足りた気持ちになるの。あとね、星占いの本も捨ててしまったわ。全く馬鹿らしかったわ、プラネタリウムの星の数と同じくらいのお金を星占いにつぎ込んできたのよ。つまらない答えだけど、結局、善い行いをすれば、善いことが起こるってことなのよ。善い行いというか、つまり、正直でいるってことね。法律的に正直でいるということではないのよ。私はお墓を掘り返して、死体の目の上に載っている25セント硬貨を盗むことだってあるでしょう。それでその日が楽しくなると思えば、そうするでしょうね。そういうことではなくて、自分自身に正直であるかどうかが重要なのよ。卑怯者や、詐欺師や、人の気持ちをだます人や、娼婦、そういったものにならなければ、あとは正直でいさえすればいいの。心が正直でなくなるくらいなら、癌になった方がましだわ。信心ぶるってことではないのよ。もっと現実的な問題なの。癌になると助からないかもしれないわね。でもね、不正直な人は絶対に救われないのよ。ああ、そろそろ、この話はやめましょう。あなた、私のギターを取ってちょうだい。最高に完璧なポルトガル語で、あなたにファドを歌ってあげるわ」


季節は巡り、夏が終わって、再び秋が訪れようとしていたが、その辺りの数週間のことは記憶の中でかすんでいる。おそらく、言葉でよりも沈黙で意思疎通をすることが日常的になるほどに、僕たちは甘く親密な関係まで、お互いの理解を深めたということだろう。一緒にいても緊張しなくなり、落ち着きのないお喋りもなくなり、友情をもっと華やかにして、表面的な意味で、さらにドラマチックな瞬間を生み出そうというような気ぜわしさもなくなり、それらに取って代わるようにして、優しく親密な静けさが訪れたのだ。

頻繁に、といっても彼が街の外に出掛けている時に限るが、(僕は彼に対して敵対心を抱くようになり、めったに彼の名前を口にすることはなくなっていた。)僕とホリーは夕方から夜までずっと一緒に過ごした。その間、僕らは百の言葉も交わさなかった。

一度、僕らはチャイナタウンまで延々と歩いた。そこで夕食にチャーメンを食べて、紙のちょうちんをいくつか買い、線香をひと箱万引きし、それから、ぶらぶらとブルックリン・ブリッジを歩いて渡った。橋の上から海に向かって進む船を眺めていた。燃え上がるように明かりのともった高層ビル群の間を何隻かの船が通り抜けていった。

彼女は言った。「ずっと先のことだけど、いつか何年も何年も経ったらね、あの船のどれかに乗って、私はここに戻ってくるのよ。私と、9人のブラジル人の子供たちと一緒にね。だって、そうよ、その子たちにこの景色を見せてあげなくちゃ。この光、この川。私はニューヨークが大好きだわ。この街は私のものではないけれど、でもね、街路樹や大通りや家や、とにかく、そういうものは当然、私の一部になっているはずよ。だって私もニューヨークの一部なんですもの」

そこで僕は言った。「黙ってくれないか」

僕は一人取り残されたようで腹が立ったのだ。港のドックにぽつんと残されたタグボートのような気持ちだった。そして、彼女は行き先の約束された豪華客船に乗って出港していくのだ。汽笛が鳴り響き、空中に紙テープが舞っている中を。

そんな風に日々が過ぎていった。彼女との終わりつつある日々は、僕の記憶の中で、ぼんやりと靄(もや)がかかり、すべてが秋の落ち葉のように風に舞っている。そして、僕が今までに経験したどんな一日とも違う、あの日が巡ってきた。


その日は9月30日で、偶然にも僕の誕生日だったのだが、だからといって、その日に降りかかってきた一連の出来事に僕の誕生日が関与しているわけではない。僕はただ、家族からお祝いのお金か何かが届くのではないかと、午前中にやってくる郵便配達員を心待ちにしていた。実際、僕は階段を降りて、郵便配達員を待っていた。

もし僕がそうやって玄関をうろうろしていなかったら、ホリーに乗馬に誘われることもなかっただろう。ということは、彼女が僕の命を救ってくれる、なんてことにもならなかっただろう。

「ねえ行こうよ」と、彼女は郵便配達員を待っている僕を見て声をかけてきた。「馬に乗って、公園をゆっくり回りましょうよ」

彼女はウィンドブレーカーを着て、ブルージーンズにテニスシューズという格好だった。彼女はまだお腹が平らであることを示すように、ぽんぽんとお腹を叩いた。

「お腹の子供を流産させるために乗馬に行くなんて思わないでね。そういうことじゃなくて、メイベル・ミネルバっていう私の大好きな馬がいるのよ。年を取った馬だし、メイベル・ミネルバにさよならも言わずにブラジルには行けないわ」

「さよなら?」

「来週の土曜日なんだけどね。ホセがチケットを買ってくれたのよ」

やや現実感が薄れていく中で、僕は彼女に導かれるままに通りに出た。

「私たちはマイアミで飛行機を乗り継ぐの。それから海を越えて、アンデス山脈を越えるのよ。タクシー!」

アンデス山脈を越えるのか。タクシーに乗って、セントラル・パークを通り過ぎている間、なんだか僕も飛んでいる気分になった。頂上に雪の積もった危険地帯の上空を僕は一人きりでふらふらと飛んでいた。

「でも、そんなのだめだよ。だって、そんなことしてどうするんだよ。なんていうか、そんなの。みんなを残して逃げるみたいに行っちゃうなんて、そんなのほんとにだめだよ」

「私がいなくなっても誰も寂しがらないと思うわ。私には友達なんていないんだから」

「僕がいるじゃないか。君がいなくなると僕が寂しい。ジョー・ベルだってきっとそうだよ。他にも、そういう人はいっぱいいるよ。ほら、サリー・トマトさんも悲しむよ」

「サリーおじさんのことは大好きだったわ」と彼女は言って、ため息をついた。「あなたは気づいてるかしら? 私はもう1ヶ月も彼に会いに行っていないのよ。私はここを離れることになったって彼に話したの。彼は天使のように優しかったわ。本当に」そこで彼女は眉をひそめた。「私がこの国を離れるって言ったら、彼は喜んでいるみたいだったわ。それが一番いいって彼は言ってくれた。遅かれ早かれ、問題になるだろうからって。私が彼の本当の姪じゃないってことがばれたらね。あの太った弁護士のオショーネシーの話を前にしたでしょ、そのオショーネシーが500ドルを送ってきたの。現金でよ。サリーからの結婚祝いだって」

僕は嫌味の一つでも言ってやりたくなった。「僕からの結婚祝いも楽しみにしていてね。もしも、本当に彼と結婚できるのならね」

彼女は笑った。「彼はちゃんと結婚してくれるわ。教会で式を挙げるの。彼の親族が来てくれることになっていてね。だから、私たちはリオに行くまで結婚式を挙げないのよ」

「君がすでに結婚しているってことを彼は知ってるの?」

「ちょっとあなたどうしたっていうの? 今日という日を台無しにするつもり? せっかくこんなに晴れて気持ちのいい日なのに。そんな話はよしてちょうだい!」

「でも、君が結婚している可能性はかなり高いと思うけど…」

「あり得ないわ。言ったでしょ、あれは法的な結婚じゃないのよ。全くあり得ない」

彼女は鼻をこすってから、横目で僕をにらむように見てきた。

「そのことを生きてる誰かに言ってごらんなさい、ダーリン。そしたら、あなたをつま先からぶらさげて、体をバラして豚の餌にしてやるわ」


厩舎(きゅうしゃ)は、(今ではテレビスタジオになっていると思うが、)ウェストサイドの66丁目にあった。ホリーは背中が湾曲した年老いた黒と白の雌馬を僕に選んでくれた。

「心配いらないわ、彼女の背中はゆりかごより安全なのよ」

その言葉は僕が安心感を得るのに必要な言葉だった。というのも、子供の頃、お祭りで10セントを出してポニーに乗ったことが僕の唯一の乗馬体験だったからだ。

ホリーは僕が鞍(くら)にまたがるのを手助けしてくれた。それから彼女は銀白色の馬に乗り、僕を先導するように歩き出した。僕らは車の往来するセントラルパークの西側の通りを並足で横切った。そして、落ち葉でまだら模様に覆われた乗馬道に入った。そよ風が吹き落とした木の葉が辺りを舞っている。

「わかったでしょ?」と彼女は叫んだ。「気持ちいいわ!」

そして急に僕も夢見心地になった。落ち葉の赤や黄色の光の中で、ホリーの髪のいろんな色がゆらめいているのを見ていたら、突然、彼女が愛おしくなった。僕自身のことなど、自分を哀れむような絶望感など忘れて、彼女が幸せだと思う結婚が、もうすぐ彼女に訪れようとしている、それだけで僕は満足だった。

徐々に僕らの乗る馬は早足になった。風が波のように打ち寄せてきて、僕らの顔に水しぶきのように風が当たる。僕らは日向と日陰のプールを出たり入ったりした。

そして喜びが、生きているだけでいいという興奮が、破裂する小さなダイナマイトのように僕の体を揺さぶった。

でもそれはつかの間の至福だった。次の瞬間には、悲劇の仮面をかぶった喜劇が待ち構えていた。

突然のことだった。ジャングルで待ち伏せしていた未開民族のように、黒人の少年の一団が道端の低木の植え込みの中から飛び出してきたのだ。野次を飛ばし、悪態をつきながら、彼らはこちらに石を投げ、細い木の枝で僕の乗る馬の尻を叩いてきた。僕が乗っていた黒と白の雌馬は後ろ足で立ち上がると、ヒヒーンといななき、綱渡りをする曲芸師のようにぐらつき、それから青い稲妻のごとく道を駆け出した。その衝撃で僕の両足はあぶみから外れ、体が宙に浮きそうになった。

馬の蹄(ひづめ)が地面の砂利を蹴散らし、火花が散った。空が傾きながら流れていった。木々や、少年たちが模型のヨットを浮かべている池や、道端に建つ彫像が、もの凄い勢いで過ぎ去っていった。

猛然と近づいてくる馬を見て、子守りをしていた女たちが慌てて子供たちに駆け寄り、道端によけさせた。男たちや、浮浪者や、いろんな人たちが叫んでいた。「手綱を引け!」とか、「どうどう!」とか、「飛び降りろ!」とか。

そういう周りの声を思い出したのは、後になってからだった。その時の僕は、ただホリーだけを意識していた。彼女がカウボーイのように馬を走らせ、僕を追ってくるのがわかった。なかなか追いつくことはできなかったが、後ろから大声で何度も何度も僕を励ましてくれた。

さらに先へ進み、馬は公園を横切り、5番街に飛び出した。お昼時で交通量が多く、行き交うタクシーやバスが一斉にキーと音を立てて脇に逸れた。デューク・マンションを過ぎ、フリック美術館の横を駆け抜け、ピエール・ホテルとプラザ・ホテルも通り過ぎた。

ついにホリーの馬が僕の馬に追いついた。さらに、一人の騎馬警官もその追跡に加わって、僕の暴走する馬を二頭の馬で両脇から挟み込んだ。そうしてとうとう、僕の馬は体から湯気を立てながら足を止めた。それから、僕はやっとの思いで手を離し、馬の背中からずり落ちた。

地面に転げ落ちた僕は自力で立ち上がったものの、自分がいったいどこにいるのかもわからないまま、そこに突っ立っていた。周りに人だかりができていた。その警官はむっとしながら手帳に書き込みをしていたが、やがて僕に同情してくれたようで、歯を見せて笑うと、僕たちの馬は厩舎に戻すように手配しておくと言ってくれた。

ホリーがタクシーを停めて、二人で乗り込んだ。「ダーリン。気分はどう?」

「いい気分だよ」

「でもあなた、脈が全然ないわよ」と、彼女は僕の手首に触れながら言った。

「じゃあ、僕はもう死んでいるんだね」

「ちょっと、馬鹿言わないで。真面目な話なのよ。私を見て」

困ったことに、彼女の顔がよく見えなかった。というよりも、ホリーの顔が三重に重なって見えた。彼女の汗にまみれた顔は青ざめ、心配そうに僕を見ていた。僕はそんな彼女に感激しながらも、なんだか気恥ずかしかった。

「正直言って、なんともないんだよ。ただ恥ずかしいだけで」

「ほんとになんともないの? お願い、正直に言ってちょうだい。あなたは死ぬかもしれなかったのよ」

「でも僕は死んでないよ。ありがとう。僕の命を救ってくれて。君は素晴らしいよ。特別な人だ。僕は君を愛してる」

「もう馬鹿ね」彼女は僕の頬にキスをした。すると彼女の顔が四重になって、そのまま僕は死んだように気を失ってしまった。


その日の夕方、ホリーの写真が『ジャーナル・アメリカン』の夕刊の一面に載った。翌日の朝刊では、『デイリー・ニュース』と『デイリー・ミラー』の両紙も彼女の写真を一面に掲載した。

その記事は暴走した馬とは何の関係もなかった。それは全く別の件に関するもので、次のような見出しが目に飛び込んできた。「プレイガール、麻薬スキャンダルで逮捕」(ジャーナル・アメリカン)、「麻薬運び屋の女優が逮捕される」(デイリー・ニュース)、「麻薬組織が摘発され、魅惑の美女が捕まる」(デイリー・ミラー)。

それらの中で、『デイリー・ニュース』が最も人目を引く写真を掲載していた。ホリーが二人の大柄な警官に両腕をつかまれ、警察本部に入っていく姿が写っている。両脇の警官は一人が男性で、もう一人は女性だった。

こんな惨めな状況では、彼女の服装さえもが、(ホリーはまだ乗馬用の格好で、ウィンドブレーカーとブルージーンズ姿だったのだが、)彼女をギャングの情婦みたいに見せていた。サングラスも、乱れた髪も、むっつりした口元から落ちそうにくわえているピカユーンのタバコも、そんなちんぴらみたいな印象を弱めてはいなかった。

その写真の下にはこう書かれていた。「20歳のホリー・ゴライトリーは、美しき新進女優にしてナイトクラブの花としても有名だが、ギャングのサルバトーレ・サリー・トマトが絡む国際的な麻薬の密輸及び密売事件の重要人物として、地検に嫌疑をかけられた。パトリック・コナー刑事とシーラ・フェツォネッティ刑事(写真左と右)が彼女を67分署に連行している。三面の詳細記事を参照せよ」

三面を開くと、オリバー・ファーザー・オショーネシーと名指しされた(ソフト帽で顔を隠している)男の写真が大きく載っていた。その記事は三段に渡る長いもので、ある程度省略するが、ホリーに関連する部分は次のような内容だった。

「ナイトクラブの常連客たちは今日、魅惑の美女ホリー・ゴライトリーの逮捕を受けて驚きを隠せずにいた。20歳の彼女はハリウッドで将来を嘱望(しょくぼう)された若手女優で、ニューヨークのナイトクラブ界隈では広く名前を知られている。同時に警察は午後2時、オリバー・オショーネシー(52歳)を逮捕した。彼は西49丁目通りのホテル・シーボードに長期滞在しており、マディソン・アベニューのハンバーグ・ヘブンから出てきたところを取り押さえられた。二人は地方検事フランク・L・ドノバンの申し立てにより、国際的な麻薬密輸組織の重要人物として嫌疑をかけられた。その組織を指揮していたのは悪名高きマフィアの総統サルバトーレ・サリー・トマトで、彼は現在、政治家への贈賄の罪により、シンシン刑務所で5年の刑に服している...

オショーネシーは、犯罪仲間の間ではファーザーやパードレなど様々な名前で知られている元聖職者で、複数の前科があるのだが、最初の犯罪歴は1934年まで遡り、ロード・アイランド州で〈修道院〉という名前の偽の精神病院を経営した罪で、2年の刑に服した。

ミス・ゴライトリーに前科はなく、彼女は上品なイーストサイド地区に建つ豪華なアパートの自室で逮捕された...

今のところ、地方検事局は正式な声明を何ら出していないが、確かな情報筋によると、この金髪の美しい女優は、少し前まで大富豪のラザフォード・トローラーと親密な関係にあり、服役中のトマトと、彼の第一の補佐役であるオショーネシーとの間の、いわば連絡係を務めていた...

ミス・ゴライトリーはトマトの親戚を装い、シンシン刑務所を毎週訪れていたと言われている。そして、面会の際にトマトは彼女に口頭で暗号文を伝え、それを彼女がオショーネシーに伝えていた。

トマトは1874年生まれで、シチリア島のチェファル出身らしいが、彼はこの連絡網を通して、メキシコ、キューバ、シチリア島、タンジール、テレラン、ダカールといった世界中に散らばる麻薬シンジケートの拠点に向けて、直接指示を出し続けることができた。しかし、地方検事局はこれらの嫌疑について詳細を述べることを拒否し、まだ嫌疑の立証も始めていない...

逮捕の情報を聞きつけた多くの記者たちが東67分署に押し寄せ、告発された二人が取り調べのために到着するのを待ち構えていた。オショーネシーは大柄な赤毛の男だったが、彼はコメントを拒み、一人のカメラマンの股間を蹴り上げた。

一方、ミス・ゴライトリーは華奢(きゃしゃ)な体で、ひときわ目を引く美人であり、スラックスに革のジャケットという少年のような服装だったが、彼女は比較的平然としていた。

『これがいったいどういうことなのか、私に聞かないでちょうだい』と、彼女は記者たちに言った。それから彼女は、『だって私にもわかりませんのよ、みなさん』とフランス語で言ってみせた。『そうよ、私はサリー・トマトさんに面会に行っていました。毎週彼に会いに行っていましたよ。それのどこがいけないのかしら? 彼は神を信じているし、私も同じよ』...」

それから、「自らの薬物依存を認める」という小見出しの下にはこう書かれていた。

「あなた自身は麻薬の常用者なのかと記者に訊ねられると、ミス・ゴライトリーは微笑んだ。『マリファナならちょっと吸ってみたことがあるわ。ブランデーの半分も害がないのよ。しかも安いし。でも残念ながら、私はブランデーの方が好きだわ。いいえ、トマトさんから薬物の話を聞いたことは一度もありません。彼を責め立てるひどい人たちに対して、私は激しく怒りを覚えます。彼は思いやりがあって、信仰心の厚い、素敵なおじいさんなのよ』」


この記事には特に大きな間違いが一つあった。彼女は「豪華なアパートの自室」で逮捕されたわけではなかった。それは僕の部屋の浴室で起こったことなのだ。僕は熱湯にエプソム塩を入れた浴槽に浸かって、乗馬の痛みを癒していた。ホリーは気の利く看護婦のように浴槽のへりに座って、スローンの塗り薬を手に持ち、僕がお風呂から上がるのを待っていた。彼女は塗り薬を僕の体にすり込んでから、僕をベッドに寝かしつけようとしていたのだ。

僕の部屋のドアがノックされた。ドアには鍵がかかっていなかったので、ホリーは「入って」と声を上げた。

入ってきたのはサフィア・スパネッラ婦人で、彼女の後ろには二人の私服警官がいた。そのうちの一人は女性で、黄色い髪を太めの三つ編みに編んで、頭に巻きつけていた。

「ほら、ここにいますよ。お尋ね者の女が!」と、スパネッラ婦人は声高に言って、浴室に入ってくると、まずホリーを指差し、それから僕の裸体に向かって指を差してきた。「ほら見なさい。なんてふしだらな女なの」

男性刑事はスパネッラ婦人の発言を聞き、その状況に戸惑っているようだったが、女性刑事のほうは毅然と対処することを楽しむような顔をしていた。彼女はホリーの肩にぽんと手を載せると、驚くほど子供っぽい可愛らしい声で言った。「さあ、行きましょう、おねえさん。行くところがあるのよ」

すると、ホリーが彼女に冷たく言い放った。「そのいまいましい手を肩からどかしてちょうだい。あなた、つまらない女ね、いい歳して、よだれを垂らしてるみたいな声出して、このレズ女」

それを聞いて、その女性はかっとなり、ホリーの頬をもの凄い勢いで、ぴしゃりと叩いた。その勢いで、ホリーの首がねじれ、手に持っていた塗り薬の瓶が吹き飛び、タイルの床に落ちて粉々に割れた。僕は慌てて浴槽から飛び出し、瓶の破片を踏みつけて、騒ぎを大きくしてしまった。僕は両足の親指をあやうく切断するところだった。

僕は素っ裸のまま、血だらけの足跡を床につけながら、事の成り行きを見届けようと廊下までついていった。

「忘れないで」と、ホリーは二人の刑事に背中を押されるように階段を下りながら、なんとか僕の方に振り返って言った。「お願い、猫に餌をあげてちょうだい」


当然、僕はスパネッラ婦人が何らかの苦情を申し立てたのだろうと思って疑わなかった。彼女はそれまでも何度か警察にホリーに関する苦情を訴えていたからだ。この一件がそんなに恐ろしい次元の話だとは、夕方になってジョー・ベルが新聞を振り回しながら、僕の部屋にやってくるまでは思ってもみなかった。

彼はひどく動揺していて、まともに喋れない状態だった。それで僕がその記事を読んでいる間、彼は両手のこぶしを打ち合わせながら、部屋の中をぐるぐると歩き回っていた。

それから彼は言った。「その記事、本当だと思うか? 彼女はそんな、ろくでもない犯罪に関わっていたのか?」

「まあ、本当のことだね」

彼はタムズ胃腸薬を口に放り込むと、僕をにらみつけながら、まるで僕の骨を嚙み砕いているみたいに、それを嚙んだ。

「おい、見損なったぞ。お前は彼女の友達じゃなかったのか? なんてひどいやつだ!」

「ちょっと待って。なにも彼女がそうと知りつつ、そんなことに関わっていたとは言ってないよ。彼女は知らなかったんだ。でも関わった。知らずにそうしていたんだよ。メッセージを運んで、手を貸すことになった...」

彼は言った。「よくそんなに冷静でいられるな。いいか、彼女は10年むしょ暮らしになるかもしれないんだぞ。もっと長いかもな」彼は僕から新聞をひったくった。「君は彼女の友人たちを知ってるだろ。金持ち連中だよ。これから一緒に俺の店まで来てくれ。そいつらに電話をかけるんだよ。俺たちの姫は、俺には雇えないような金のかかるまともな弁護士が必要になるだろうからな」

全身がひりひり痛く、ぶるぶる震えて、僕は自力で着替えることができずに、ジョー・ベルに手を貸してもらわなければならなかった。

店に着くと、彼は電話ボックスに僕を立たせ、マティーニを大グラスに注いで持ってきた。それと、小銭がいっぱい入ったブランデーグラスも押しつけてきた。でも僕は誰に連絡したらいいのか思いつかなかった。

ホセはワシントンだし、ワシントンのどこに電話すれば、彼と連絡を取れるのかなんて知るよしもない。ラスティー・トローラー? あんな奴に連絡したらだめだ!とはいえ、他に僕が知ってる彼女の友達は誰がいる? ひょっとしたら彼女が、友達なんて一人もいないわ、と言っていたのは本当のことだったのかもしれない。

僕は長距離番号案内で、O.J.バーマンの番号を教えてもらい、ビバリーヒルズのクレストビューの5-6958に電話をかけた。

電話に出た人が、ミスター・バーマンは今マッサージ中で声をかけられないから、悪いけど、また後でかけ直してほしい、と言った。

ジョー・ベルは激怒して、どうして生死に関わることだと言わないんだと僕を責めた。そして、ラスティーに電話をかけてみろと僕に言ってきた。

最初に電話に出たのはミスター・トローラーの執事だった。彼が言うには、トローラー夫妻はただ今夕食を取っておられますので、伝言を承ります、とのことだった。僕の横にいたジョー・ベルが受話器に向かって叫んだ。「これは緊急なんだよ、ミスター。生死に関わるんだ」

そうして、かつてマグ・ワイルドウッドだった女性が電話口に出てきて、僕は彼女と話すことになった。というか、彼女の発言をただ聞くことになった。

「あなた気でも狂ったの?」と、彼女は強い口調で言った。「夫と私は、私たちの名前と、あのむ、む、むかつく、だ、だ、堕落女とを結びつけようとする人は誰であっても、断固として訴えるわよ。彼女が盛りのついた雌犬みたいに道徳心の欠片も持ち合わせていない、ま、麻薬中毒者だってことくらい、初めからわかっていたのよ。牢屋が彼女にはお似合いだわ。私の夫も千パーセント同じ意見よ。私たちは相手が誰でも確実に訴えるわ...」

電話を切ると、僕はテキサスのチューリップ畑の辺りに住むドクのことを思い出した。でも、それはだめだ。ホリーはそんなことを望まないだろう。もし彼に電話したら、僕は彼女に本気で殺されてしまう。

僕はもう一度カリフォルニアに電話をかけてみたが、回線が混んでいてなかなか繋がらなかった。何度もかけ直したが、話し中は続いた。

O.J.バーマンがやっと電話口に出た時には、僕はすでにマティーニのグラスを何杯も空にしていて、僕が彼に電話をかけた理由を、彼から教えてもらわなければならなかった。

「あの子のことだろう? そのことなら知ってるよ。すでにイギー・フィテルスタインに頼んである。イギーはニューヨークで一番の敏腕弁護士だ。イギーにはこう言ってある。穏便に済ませてくれ。請求書は俺宛に送ってくれればいいが、俺の名前は表に出すなってな。まあ、俺はあの子に借りのようなものがあるんだよ。具体的に何かを借りたってわけじゃないんだ。結局、君もそうしたくなるよ。あの子はいかれてるし、まやかしだ。でも、本物のまやかしなんだよ。わかるだろう? とにかく、1万ドルの保釈金が支払われるまで拘留されているだけだ。心配しなくていい。イギーは今夜にもあの子を釈放させる。もう今頃、あの子が部屋に戻っていたとしても俺は驚かないよ」


しかし、ホリーは夜になっても帰ってこなかった。翌朝、猫に餌をあげようと彼女の部屋に行ってみたが、彼女はまだ戻っていなかった。彼女の部屋の鍵を持っていなかったので、僕は非常階段を使って、窓から彼女の寝室に入り込んだ。

猫は寝室にいた。そして、そこには猫以外にも、一人の男がいたのだ。なにやらスーツケースの上に屈み込んでいる。僕たちは二人ともお互いのことを泥棒だと思い、怪訝(けげん)な目で見つめ合った。僕は窓から寝室に足を踏み入れたところだった。

彼は端正な顔をしていて、髪にもつやがあり、ホセに似ていた。その上、彼が荷造りしているスーツケースの中には、ホセがホリーの部屋に置いていた衣類が入っていた。その見覚えがある靴やスーツを、彼女はいつも大慌てで修理屋やクリーニング屋に持ち運んでいた。

それで僕は、そういうことかと思いつつ聞いた。「イバラ・イェーガーさんに頼まれたんですね?」

「私は従兄弟です」と、彼は用心深い笑みを浮かべながら、かろうじて理解できるアクセントで言った。

「ホセは今どこにいるんですか?」

彼は頭の中で別の言語に訳そうとしているかのように、僕の質問をおうむ返しに繰り返した。

「ああ、彼女がどこにいるかってことですね! 彼女は待っています」そう言うと、彼は僕のことなどお構いなく、再びホセに命じられた作業に取り掛かった。

なるほど、あの外交官は逃げようとしているのだ。まあ、僕は驚かなかったし、ほんの少しも残念に思わなかった。それでも、ホリーの心を踏みにじる行為だとは思った。

「彼は馬の鞭で打たれるべきだね」

その従兄弟はくすくす笑ったので、僕の言いたいことが伝わったらしい。彼はスーツケースを閉じると、手紙を差し出してきた。

「私の従兄弟は、これをこの友達の部屋に置いてくるように私に頼みました。あなたに頼んでもいいですか?」

封筒にはこう走り書きしてあった。「ミス・H・ゴライトリー様。使いの者に託す」

僕はホリーのベッドに腰を下ろすと、ホリーの猫を膝の上に乗せて抱き締めた。そして、ホリーをかわいそうに思い、彼女が感じるはずの悲しみを僕はひとしきり嚙み締めた。

「わかりました。僕が渡しておきます」

そして僕は彼女にそれを渡した。内心は少しも渡したくなかったのだけれど、手紙をそのまま破り捨ててしまうような勇気はなかったし、ホリーが、ひょっとしてあなた、ホセのこと何か知ってる?と、とてもためらいがちに聞いてきた時に、ポケットに手紙をしまい込んだまま黙っていられるほどの意志の強さも僕にはなかった。

その機会は二日後の午前中に訪れた。消毒薬とおまるの臭いが漂う病室で、僕は彼女のベッド脇に座っていた。逮捕された日の夜からずっと彼女はそこにいたらしい。

ピカユーンのタバコのカートンボックスと、秋に咲くスミレの花輪を持って、そっと彼女のベッドに近づくと、「あら、ダーリン」と言って、彼女は僕を歓迎してくれた。「お腹の子供を亡くしてしまったの」

彼女は12歳にもなっていない子供のように見えた。淡いバニラ色の髪は後ろでしっかり束ねられ、さすがにサングラスはかけておらず、彼女の目は雨水みたいに透明だった。一見すると、それほど具合が悪いようには見えなかった。

でも実際、彼女の具合はかなり悪かった。「まったくもう、私は死ぬところだったのよ。冗談抜きで、あの太った女に殺されそうになったんだから。あの女が嵐のようにぺちゃくちゃ喋りまくっていたの。あの太った女のことはまだ話してなかったわよね。兄が死ぬまでは、私自身もそんな女の存在には気づいていなかったのよ。彼が死んだことをすぐには理解できなかった。フレッドはどこへ行ったのか、彼が死んだっていうのはどういうことなのか、私は理解できずに途方に暮れていた。そんな時に、あの女を見たのよ。あの女が私の部屋にいて、私のすぐそばで、フレッドを腕に抱えてあやしていた。あの太った嫌な赤色をした女がロッキングチェアに座って、フレッドを膝に載せて椅子を揺すりながら、金管楽器を吹くみたいに笑っていたの。まったく馬鹿にしてるわ!でもね、私たちの前には、あなたの前にも突然訪れるのよ。こういうピエロみたいな女が、私やあなたをあざ笑ってやろうと待ち構えているの。これでわかったでしょ? あの女のせいで私はおかしくなって、部屋の中をめちゃくちゃにしたのよ」

O.J.バーマンが雇った弁護士以外では、僕だけが彼女との面会を許されていた。彼女の病室には他にも入院患者がいた。彼女たちは三つ子のようにそっくりな三人組で、不親切な感じは受けなかったが、僕のことをじろじろと品定めするように見ては、何やらひそひそとイタリア語で話し合っていた。

「彼女たちはあなたが私の元凶だと思っているのよ、ダーリン。私にこんな辛い思いをさせた男だって」と、ホリーは説明してくれた。

それなら事情をちゃんと説明したらどうだろうかと提案してみたが、彼女は、「そんなことできないわ。彼女たちは英語が喋れないのよ。それに、せっかく彼女たちがあれこれ人のことを詮索して楽しんでるのに、そんなことしたら台無しじゃない」と答えた。

彼女がホセのことを聞いてきたのはその時だった。その手紙を見た瞬間に彼女は目を細め、唇を曲げて小さな笑みを作ったが、それはどことなく険しい微笑みで、彼女の年齢が一気に高まった気がした。

「ダーリン」と、彼女は僕に指図した。「そこの引き出しから、私のハンドバッグを取ってちょうだい。女の子が口紅も塗らないで、こういう手紙を読むわけにはいかないわ」

コンパクトの鏡を見ながら、彼女はおしろいをパタパタはたいて、12歳の少女の面影をすっかり覆い隠してしまった。彼女はチューブ型の口紅で唇の形を整えると、別のチューブを手に取って、頬に色をつけた。それから、ペンシル型のアイライナーで目元にラインを引き、まぶたを青っぽくして、4711のオーデコロンを襟元に振りかけた。両耳に真珠のイヤリングをつけ、サングラスもかけた。そんな風に身だしなみを整え、指をかざし、はげかかったマニキュアを見つめて落胆した後、彼女は手紙の封をびりっと切った。

そして、無表情に近い微笑みを浮かべながら、彼女は手紙の文面に目を走らせた。読み進むにつれて、そんな小さな微笑みも徐々に消え、表情がこわばっていった。

やがて彼女はピカユーンのタバコが欲しいと言った。タバコの煙を吐き出すと、「ひどい味ね。でも最高だわ」と言って、彼女は僕に手紙をぽいと渡してきた。「たぶんその手紙、つまらないロマンス小説でも書く時に使えるわよ。一人で黙って読んでないで、声に出して読んでちょうだい。自分の耳で聞いてみたいのよ」

その手紙はこう始まっていた。「いとしい君へ...」

ホリーはすぐに僕が読むのを遮って、彼の筆跡についてどう思うか聞いてきた。

特に何とも思わなかったので、しっかりとしていて、とても読みやすいし、風変わりな感じもない字だね、と答えた。

「まさに彼そのものだわ。ボタンをきっちり上までとめて、息がつまりそうな感じ」と、彼女は打ち明けるように言った。「続けて」

「いとしい君へ。君が他の人とは違っていることを知りつつも、私は君を愛していた。でも、私の絶望も想像してみてほしい。私のような信条と仕事を持つ男が、妻にしたいと望む女性からは、かけ離れた野蛮な行動を君がしていたと公になって、それを知った時の私の気持ちを想像してほしい。君が今置かれている状況を思うと、私もとても辛い。君が浴びせられている非難に上乗せして、私も君を責めようという気持ちは少しもない。だから君も、できれば私を責めようという気持ちにはならないでほしい。私は自分の家柄や名前を守らなければならない。そういった世間の評判が絡んでくると、私は卑怯者になる。私のことは忘れてほしい。美しい君。私はもうここにはいない。故郷に帰るよ。でも心では、いつでも君と君の子供に神のご加護があることを祈っている。特別な神のお慈悲を君に。-ホセ」

「どう思う?」

「ある意味、とても正直だね。胸にぐっと迫ってきたよ」

「ぐっと迫る? そんなの馬鹿げたたわごとよ!」

「だってさ、彼は自分のことを卑怯者だと言ってるわけだし、彼の立場に立ってみれば、彼の気持ちもわかるんじゃないかな...」

しかし、ホリーは彼の気持ちもわかると認める気はなかった。ただ、彼女の顔が、化粧をして取り繕ってはいるものの、そんなことは百も承知よ、と告白していた。

「そうね、彼は根っからの卑怯者ではないわね。ラスティーやベニー・シャクレットみたいな、とんでもなく下品な卑怯者ではないわ。でも、ああ、もう、なんてことなの」と言って、彼女はわめき散らす赤ん坊のように、握りこぶしを無理に口に押し込もうとした。「私は彼を愛していたのよ。あの卑怯者を」

三人のイタリア人女性は恋人の危機を想像し、ホリーの嘆きの原因を彼女たちの思うままに解釈し、僕に向かって舌打ちした。僕はなんだか嬉しかった。ホリーが僕に好意を抱いていると誰かに思われるなんて光栄だった。

僕がもう一本タバコを勧めると、彼女は落ち着いた。彼女はタバコの煙を吸い込むと、こう言った。「あなたに感謝してるのよ、坊や。あなたが馬に乗るのがあんなに下手くそでよかったわ。私がカラミティー・ジェーンばりに馬を走らせて、あなたを追いかけるなんて真似しなければ、私は未婚の母のための寮にでも入って、食べ物を恵んでもらう羽目になっていたわね。あんなに激しく動いたから、流産しちゃったのよ。でもね、ほら、あのレズ刑事にひっぱたかれたでしょ、そのせいで流産したんだって言って、警察署全体を脅してやったわ。そうね、私は不法逮捕も含めて、いくつかの件で警察を訴えることができるわね」

それまで僕たちは彼女を待ち受けている厳しい試練について話すのを避けてきたのだが、彼女が冗談めかして逮捕について言及したことに僕は啞然としつつ、そんな彼女が痛々しくもあった。それほど彼女には、自分の前に暗い現実が横たわっていることを認識するだけの余裕がないのだ。

「いいかい、ホリー」と、僕は強くて分別を持った親戚のおじさんのように振る舞おうとして言った。

「いいかい、ホリー。笑い話では済まないんだよ。僕らはちゃんと今後の計画を練らないといけないんだ」

「あなたは若すぎて、何を言っても、さまになってないのよ。小物すぎるわ。それに、あなたにどんな関係があるって言うの?」

「関係はないけど、君は僕の友達だから、心配なんだよ。君がこれからどうするつもりなのか知りたいんだ」

彼女は鼻をこすると、天井をじっと見上げて考えをまとめた。

「今日は水曜日よね? そうね、土曜日までぐっすり寝て、ゆっくり休むことにするわ。土曜日の朝になったら、そっとここから抜け出して銀行に行くわ。それから一旦アパートに戻って、ネグリジェを二着ほどと、私のお気に入りのマンボシェの洋服も持って、そしたら、アイドルワイルド空港に向かうの。あなたもよく知ってるように、私はれっきとした正規の予約搭乗券を持っているからね。そうね、あなたが私の友達だって言うのなら、空港まで手を振りに来てもいいわよ。ちょっと、首を横に振るのはやめてちょうだい」

「ホリー、ホリー、そんなことしちゃだめだよ」

「どうしてだめなの? もしかして私が慌ててホセを追いかけようとしているとでも思ってるわけ? そんなわけないじゃない。私にとって、彼はもう冥界の住人よ。私の調査では、彼は天国には行けないでしょうけどね。ただね、せっかくちゃんとした航空券があるんだから、無駄にすべきじゃないと思うの。すでに支払い済みなのよ。それにね、私、ブラジルに一度も行ったことないの」

「まったく、この病院は君にどんな薬を飲ませているんだ? 君は刑事告訴されているんだってわかってないの? もし保釈中に国外逃亡しようとして捕まったら、君はもう刑務所から出られなくなる。たとえうまく逃げられたとしても、もう二度と故郷には戻れない」

「まあ、それは残念ね。でも、故郷っていうのは自分が気楽にくつろげる場所のことよ。私はまだそういう場所を探しているところなの」

「そんな馬鹿な事を考えたらだめだよ、ホリー。君は無罪なんだから、逃げないで最後まで頑張ってよ」

彼女は「フレーフレー、頑張って」と言うと、僕の顔にタバコの煙を吹きかけた。

しかし、彼女の胸にも迫るものがあったようで、彼女の瞳孔が広がった。僕と同じものを見ているのだ。鉄格子の部屋、硬く冷たい廊下、ゆっくりと閉まる扉、そんな惨めな未来が見えたに違いない。

「ちょっと、やめてよ」と彼女は言って、タバコをもみ消した。「私があいつらに捕まるわけないでしょ。あなたさえ黙っていてくれればね。いい、私を見くびらないでね、ダーリン」

彼女は僕の手の上に彼女の手を重ねると、突然握りしめてきた。彼女の誠実さが手を通して伝わってきた。

「私にはあまり選択の余地はないのよ。弁護士とも話し合ったわ。あ、リオに行くなんて彼には言ってないわよ。彼に言ったりしたら、警察に告げ口されるわ。私に逃げられたら、O.J.が払った保釈金は言うまでもなく、彼の弁護士料も失うことになるんだからね。O.J.の気持ちには感謝してるわ。でもね、一度、西海岸にいた頃、彼がポーカーの一発勝負で勝てるように、そっと相手の手を教えてあげたのよ。彼、あの時、1万ドル以上儲けたわ。だから、これでおあいこね。それより、あいつらの本当の目的はね、警察が望んでいることはね、私の襟元をひっつかんだりした後で、サリーを有罪にするために私を州側の証言台に立たせようとしているのよ。誰も私を起訴しようなんて思っていないの。そんな証拠は微塵もないんだから当然よ。そうね、私は骨の髄まで腐っているかもしれないわね。それでも、私は友達の不利になるような証言は絶対にしないわ。たとえ私が証言することで、彼が慈悲深いシスター・ケニーに麻薬を飲ませたことを立証できるとしても、私は証言しないわね。私の判断基準は、その人が私をどう扱ったかなのよ。もちろん、サリーおじさんは私にすべてを正直に話していたわけではないわ。ちょっとは私を利用したんでしょう。それでもやっぱりサリーはなかなかいい人よ。警察が彼を押さえつけるのを手助けするくらいなら、あの太った女にひっつかまれて、あの世に連れ去られる方がましよ」

彼女は顔の上にかざしたコンパクトの鏡を傾け、曲げた小指で口紅をならしながら言った。「それに正直言ってね、それだけじゃないのよ。スポットライトの色合い一つで、女優の顔色は台無しになっちゃう、みたいなことね。たとえ私が陪審員からパープルハートとかの名誉ある勲章をもらってもね、この界隈では、私はこれから先、うまく立ち振る舞えなくなるわ。ナイトクラブのラ・ルーからペローナズ・バー・アンド・グリルまで立ち入り禁止のテープが張られてしまう。本当よ。私は葬儀屋のフランク・E・キャンベルさんみたいに疫病神扱いされるのよ。私みたいに特殊な魅力で生きてきた女にとっては、それはもう破滅なのよ。坊やに私の言っている意味がわかるかしら? ええ、そうよ、ローズランド辺りに引っ込んで、ウェストサイドの田舎者たちと戯れて、ぶざまに生きていくなんて考えられないわ。一方で、あの抜け目のないトローラー夫人は気取ってお尻を振りながら、ティファニーに出入りしているのよ。そんなの耐えられないわ。そんな屈辱を受け入れるくらいなら、いつでもあの太った女のお世話になるわ」

看護婦が足音を立てずにそっと病室に入ってきて、もう面会時間は終わりですよ、と告げた。ホリーは文句を言いかけたが、口に体温計を差し込まれて黙らされてしまった。

しかし、僕が帰ろうとすると、彼女は口から体温計を抜いて言った。「お願いがあるんだけど、ダーリン。『ニューヨーク・タイムズ』でも、どこの新聞社でもいいんだけど、電話をかけて、ブラジルで最も裕福な50人のリストを手に入れてほしいのよ。私は本気で言ってるのよ。人種とか肌の色には関係なく、最も裕福な50人よ。もう一つお願いがあるんだけど、私の部屋を探して、あなたがくれたあのメダルを見つけてほしいの。聖クリストファーのよ。旅行にはあれが必要でしょ」


金曜日の夜は空が赤く、稲妻も光っていた。そして土曜日になった。彼女が出発する日だというのに、激しく雨が降りしきり、土砂降りに打たれて街が揺れていた。サメが空中を泳げそうなほどの雨だったが、飛行機がその中を突っ切って飛ぶのは無理そうだった。しかし、僕が内心では喜びながら、この天気では飛行機は飛びそうもないよ、といくら言っても、ホリーは準備を続けた。というか実を言うと、大変な作業の大部分をやったのは僕だった。彼女はアパートには近づかない方が賢明だと判断して僕に任せたのだ。

まさに彼女の予想通り、アパートは見張られていた。警察か記者か、それとも正体不明の利害関係者なのか、一人の時もあれば、数人の時もあったが、男が玄関口の踏み段の前をうろついていた。そんな中、彼女は病院を抜け出して銀行に行き、その足でジョー・ベルのバーへ向かった。

「彼女は誰にもあとをつけられていないそうだ」と、ジョー・ベルが僕の部屋にやって来て言った。ホリーがなるべく早く僕に会いたがっているらしく、30分以内にこれらの物を持って店に来てくれ、と言われた。

「彼女の装飾品と、彼女のギター。それから歯ブラシとかの洗面用具。それと、100年物のブランデーもだ。ブランデーのボトルが汚れた服の入った洗濯カゴの底に隠してあるそうだ。ああ、そうだ、猫もだ。彼女は猫も連れてきてほしいと言っている。ただ」と彼は言った。「そもそもこんなことに手を貸していいものかどうか。彼女の気持ちには背くが、彼女を守ってやるべきじゃないのかな。俺としては、警察に話した方がいい気もする。それか店に戻って、彼女に酒をどんどん飲ませて酔っ払わせて、計画をやめさせられればいいのだが」

僕は滑って転びそうになりながら非常階段を上ったり下りたりして、ホリーの部屋と僕の部屋を行き来した。風が吹きすさび、横殴りの雨に息が切れ、骨まで濡れた。(おまけに骨に達するまで猫に爪を立てられた。こんな悪天候の日に外へ連れ出されるなんて、猫もお気に召すはずがない。)それでも僕は迅速にして、一流の手際の良さで、彼女の逃走用の荷物をかき集めた。聖クリストファーのメダルも見つけた。

色々なものが僕の部屋の床にピラミッドのように積み上げられた。積み重なったブラジャーやダンスシューズや、そういう美しいものに胸が締めつけられそうになりながら、僕はそれらをホリーの唯一のスーツケースに詰め込んだ。

スーツケースに入り切らないものがひと山残り、仕方なく食料品店の紙袋に小分けして入れた。猫をどうやって運べばいいか悩んだ結果、枕カバーに詰め込むように入れて運ぶことにした。

理由はともかくとして、僕は一度、ニューオーリンズからミシシッピー州のナンシーまで、500マイル弱の道のりを歩いたことがあるのだが、その時の旅路でさえ、ジョー・ベルのバーまでの移動に比べたら、のんきな散歩みたいなものだった。

ギターの中に雨水が溢れ、雨が紙袋をぐしょぐしょにした。紙袋は破れ、そこから香水が歩道にこぼれ落ち、真珠が側溝の中に転がり落ちた。風に煽られ、猫に引っかかれた。猫は叫び続けていたが、猫以上に僕は怖がっていた。僕はホセに負けないくらいの臆病者なのだ。暴風雨で周りがよく見えないが、僕を罠にはめようと待ち構えている連中が通りのあちこちにいる気がした。無法者に手を貸したとして、僕を投獄しようとしているのだ。


その無法者は言った。「遅かったじゃない、坊や。ブランデーは持ってきてくれた?」

猫を解放してやると、猫は軽い身のこなしで彼女の肩に飛び乗った。猫の尻尾がラプソディー風の音楽を指揮しているかのように振られていた。

ホリーもまた、船出を祝う『ウンパッパ』か何かの浮かれたメロディーに心を奪われているようだった。

ブランデーのコルク栓を抜きながら彼女は言った。「これは嫁入り道具の一つとして持っていくつもりだったのよ。毎年結婚記念日に二人で乾杯して飲もうと思っていたの。まったく、収納箱まで買わなくてよかったわ。ねえ、ベルさん、グラスを三つお願い」

「グラスは二つでいいだろう」と彼は彼女に言った。「俺は君の馬鹿げた行為を祝うつもりはない」

彼女が甘い声を出せば出すほど(「もう、ベルさんったら。女の子がいなくなるなんて、めったにあることじゃないわよ。そんな子がいたら、祝杯をあげるのが礼儀ってものじゃない?」)、ますます彼は無愛想になっていった。

「俺には関係のないことだ。地獄でもどこでも勝手に行けばいい。これ以上、手を貸すつもりはない」

彼はそう言ったが、それは不正確な発言だった。というのも、彼がそう言った直後、運転手付きのリムジンがバーの前に停まったのだ。

その車に最初に気づいたのはホリーだった。彼女はブランデーのグラスを置き、眉をつり上げた。まるで地方検事が自らやって来て、リムジンから降り立つのを待ち構えているかのようだった。

僕もそう思った。ジョー・ベルの顔が赤くなったのを見て、本当に警察を呼んだのかよ、と思わずにはいられなかった。でもその時、彼が耳まで真っ赤にして告げた。「なんてことはない。〈キャリー・キャデラックス〉に電話して、車を一台呼んだだけだ。空港まで乗っていくといい」彼は僕たちに背を向けると、花瓶の生け花をいじり始めた。

ホリーは言った。「親切なのね。ありがとう、ベルさん。ねえ、こっちを見て」

彼はこちらを見ずに、花をつかんで花瓶から引き抜くと、それを後ろ手に彼女に向けて投げた。花は彼女の脇に逸れ、床にばらばらと散らばった。

「さよなら」と彼は言った。そして彼は吐き気でも催したかのように、慌てて男性用トイレに駆け込んだ。ドアをロックする音が僕らの耳に届いた。

〈キャリー〉の運転手は気が利く愛想のいい人で、僕らが大急ぎで荷造りした荷物を極めて丁重に受け取ると、小降りになってきた雨の中、リムジンの向きを軽快に変え、アップタウン方面へ走り出した。ホリーは病院に着替えの洋服がなかったため、まだ乗馬用の格好をしていたのだが、車の中でそれを脱ぎ、すらりとした黒のドレスにどうにか着替えた。その間も運転手は石のように無表情だった。

僕らは話をしなかった。話し出せば口論になることは目に見えていたし、それにホリーはなんだか上の空で会話どころではなさそうだった。彼女は歌を口ずさみ、ブランデーを一口飲んでは、ひっきりなしに前屈みになって窓の外をじっと見つめていた。まるでどこか特定の場所でも探しているかのようだった。あるいは、彼女がずっと覚えておきたい思い出の場所を最後に目に焼き付けようとしているのだと僕は思った。

しかし、そのどちらでもなかった。「ここで停めて」と、彼女が運転手に命じて、僕らを乗せた車はスパニッシュ・ハーレム地区の道端に停まった。野蛮で、派手で、陰鬱な雰囲気が漂うその地区には、映画スターや聖母マリアのポスターがあちこちに貼られていた。歩道には果物の皮が散らかり、くしゃくしゃになった新聞紙が風に吹かれて舞っていた。風はまだ音を立てて吹いていたが、雨はやみ、上空では雲が裂け、ところどころに青空がのぞいていた。

ホリーは車から降りたのだが、彼女は猫を抱いたままだった。あやすように揺すり、猫の頭をかきながら、彼女は猫に語りかけた。

「あなたはどう思う? この辺りがあなたみたいなたくましい男にはお似合いじゃないかしら。ゴミ缶もあるし、ネズミもたくさんいるし、一緒につるんで歩く猫仲間もいっぱいいるわよ。さあ、行きなさい」

彼女はそう言うと、猫を地面に降ろした。猫はそこから動くことなく、悪党のような顔を上に向け、海賊のような黄色い目で彼女を不思議そうに見上げていた。すると、彼女が足を踏み鳴らした。「さっさと行きなさいって言ったのよ!」

猫は頭を彼女の足にすり寄せてきた。

「早く行けって言ったでしょ!」と、彼女は叫んだ。それから車に飛び乗り、ドアをバタンと閉め、「出して」と運転手に言った。「さあ、早く行って」

僕は啞然としていた。「ちょっと、なんてことを。君はなんてひどい女なんだ」

車が一ブロックほど進んでから、やっと彼女は反応した。「言ったでしょ、私とあの猫はある日、川のほとりで出会ったの。ただそれだけなのよ。お互いに独立して生きているの。将来の約束を交わしたことなんて一度もないわ。ただの一度もよ...」そう言ったところで、彼女は声をつまらせた。ひくひくと震えながら、彼女の顔はみるみるうちに病的に青白くなった。

車は赤信号で停まっていた。その時、彼女はドアを開け、来た道を戻るように走り出した。そして僕も彼女のあとを追って走った。

しかし、猫はさっき彼女が置き去りにしてきた通りの角にはもういなかった。辺りを見回しても、猫は一匹もいない。酔っ払いが立ち小便をしているだけだ。そこに二人の黒人の修道女が子供たちを引き連れて歩いてきた。子供たちは一列になって可愛らしい声で歌っていた。

そのうちに他の子供たちがそれぞれの家の玄関から出てきた。女性たちも何事かと窓から身を乗り出すようにして顔を出した。ホリーはキョロキョロしながら、その周辺を行ったり来たりして駆けずり回っていた。「猫ちゃん、どこにいるの? 私はここよ、猫ちゃん」と、彼女は祈るように繰り返していた。

彼女が猫を探し回っていると、あばた面した少年が年老いた雄猫の首筋をつかんでぶら下げながら、やって来た。「おねえさん、可愛い猫ちゃんが欲しいんだろ? 1ドルでいいよ」

リムジンは僕らを追ってきて、近くに停まっていた。そこで僕はホリーの手を引いて車に向かった。彼女はすんなりついてきた。ドアの前で彼女は立ち止まり、振り返ると、僕の肩越しを見た。僕の後ろには少年もいたが、彼女はもっと遠くを見つめていた。少年はまだ猫の値段交渉をしていた。(「50セントでいいよ。しょうがないな、25セントでどうだい? 25セントなら、安いもんだろ」)

彼女の体は震えていた。僕の腕をしっかり握っていないと、立っていられないようだった。「ああ、神様。私たちはお互いに相手のものだった。あの子は私のものだったのよ」

その時、僕は彼女に約束した。僕がここに戻ってきて、君の猫を見つけるから、と言った。「僕が猫の世話もちゃんとするから。約束する」

彼女は微笑んだが、それは初めて見る悲しげな微笑みだった。

「でも、私はどうすればいいの?」彼女は囁くようにそう言うと、再び体を震わせた。「とても怖いのよ、坊や。そうよ、とうとうこんなことになってしまったわ。永遠に同じようなことを繰り返すのよ。捨ててしまうまでは自分のものだってわからないものね。あの嫌な赤色の気分も大したことじゃないわ。あの太った女もべつにどうでもいい。でも、こんなことを繰り返すだけの人生なら、口がからからに乾いて、人生に唾を吐くこともできないわ」

彼女は車に乗り込むと、シートに深くもたれかかった。「ごめんなさいね、運転手さん。さあ行きましょう」


「トマトの連れの美女、行方不明」、「麻薬スキャンダルの女優、ギャングの世界で消された?」という見出しが並んだ。

しかしほどなくして、「逃亡中のプレイガール、リオへ飛ぶ」という記事が出た。どうやらアメリカの当局は彼女を連れ戻そうとはしなかったようで、その件はすぐに下火になり、時々ゴシップ欄で見かける程度になった。新聞に載った新たな話としては、サリー・トマトがクリスマスの日にシンシン刑務所内で心臓発作により亡くなったという記事が出て、一緒にホリーの名前も取り上げられていたが、それが最後だった。

月日が流れ、冬が過ぎても、ホリーからは何の便りもなかった。ブラウンストーンのアパートの大家は、ホリーが部屋に残していった家財道具を全て売り払った。白いサテン生地のシーツがかかったベッドや、壁掛けや、彼女が大切にしていたゴシック風の椅子も売られてしまった。

その部屋に新たな住人がやって来た。クウェインタンス・スミスという男で、彼もまた、ホリーに負けないくらい大勢の男性客を部屋に招き入れ、騒がしくしていた。ただ、今回はスパネッラ婦人は文句を言わなかった。というのも、彼女はその若い男に惚れ込み、彼がお客に殴られて目の周りにあざをつくると、いつでも彼女はフィレミニョンを彼に焼いてあげるのだった。

そして春になって、やっと彼女からハガキが届いた。鉛筆で走り書きされた文章の最後には、口紅のキスマークが名前の代わりについていた。

「ブラジルはほんとにけがらわしいところだったけど、ブエノスアイレスは最高よ。ティファニーほど素敵じゃないけど、それに近いわ。すっごく素敵なお金持ちの紳士と仲良くなったの。それは愛なのかって? そう思うわ。とにかく、今はどこか住む場所を探しているところよ。(その人には奥さんと、7人の子供がいるからね。)住所が決まったら、またハガキで知らせるわ。千の優しさを込めて」

でも、彼女はどこかに落ち着く場所を見つけたんだとしても、住所の書かれたハガキが送られてくることはなかった。それは僕を悲しくさせた。彼女に返事を書いて知らせたいことがたくさんあったから。

まず、僕の小説が二つも売れたよ。それから、トローラー夫婦が離婚調停中だと新聞で読んだ。それと、ブラウンストーンのアパートを出ていくことにした。だって君の幽霊が出るからね。

でも何より君に伝えたいのは猫のことだよ。僕は君との約束を守って、あの猫を見つけたんだ。何週間も毎日、仕事帰りにあのスパニッシュ・ハーレムの辺りを歩き回ってね。何度も似たような猫を見かけた。トラ猫が視界を横切ると、はっとしてね、でもよく見ると、あの猫じゃなかった。

そしたら、ある日、あれは冷え込んではいたけれど晴れていた、冬の日曜日の午後だった。ある家の窓辺に置かれた鉢植えの間に、あの猫が座っていたんだ。清潔そうなレースのカーテンがかかった窓辺の室内にだよ。暖かそうな部屋を背にしていた。

どんな名前をつけてもらったんだろうと想像した。今ではあの猫にも名前があるはずだからね。あの猫は自分が落ち着ける場所にやっとたどり着いたんだ。ホリーも、アフリカの小屋でもどこでもいいから、そういう場所にたどり着いていることを僕は願っているよ。